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スレッドNo.1324

御破算で願ひましては初燕

ハジメ2018さん、さすがに春半ば(仲春)で「草いきれ」という晩夏の季語はアウトです。俳句は季節の先取りを許しますが、それはきっこさんが言っているように、晩春の季感の例えば桜が散って葉桜になりつつあるといった「さきがけ・盛り・名残」という季感の移り変わりの「名残」の頃合いでしょう。セーターの目安の17℃を下回る頃から冬に入るように、三寒四温を繰り返しながら気温が20℃まで上がる三月半ばで辛夷や木蓮がグー・チョキ・パーと開き始めて桜が咲いても「花冷え」があることを飛び越えて、真夏の皮膚を噛むような日差しが照りつけて、茂った草がしおれ、蒸れるような湿気とにおいを放つ「草いきれ」はアカマムシです。足し算の無数掛け算は御破算にして身の周りの季節に身をゆだねて想像力を磨きましょう。

ただ、「草いきれ」に目をつけたのは立派。波多野爽波が弟子たちに言ったことでこういうことがありました。
弟子たちが「夏草」で俳句を詠んだ時に、爽波はどうして「夏草」を使うのか、夏草と言えば俳人なら誰しも芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」を思い出してしまう。手垢の付いた季語ではなく、身の周りにもっといい季語があるではないですか、と言って差し出したのが「草いきれ」でした。確かにこの季語にはなまなましい匂いが立ちのぼり子どもの頃の草罠を仕掛けて遊んだ頃の記憶までありありと思い出します。わたくしもその話を聞いて、俳聖と呼ばれる芭蕉の名句という現実に山の如く聳え立つ古典を越えるだけの才覚など誰にもありませんから、裏山の原っぱの「草いきれ」で詠む方が現代人の季語にはふさわしいと思い知りました。爽波の門弟の凄いところは彼らが師の薫陶を守って自分の身の周りの季語を一週間ごとに書き留めてそれぞれが自分の歳時記を持っていることで、実際に蛇腹のように繋いだ手書きの歳時記を見せてもらって驚愕しました。これを何十年も繰り返していたとは。爽波一門の俳句の凄さはそういった鍛錬で鍛えた心の中に歳時記があるので、彼らは歳時記を持ち歩かない、心の中から季語が出て来ることで、心の中から出て来た季語は動かないということです。西野文代さんは爽波高弟の一人ですが仮名遣いの名手で京言葉で俳句を詠ませたら彼女の右に出る俳人はひとりもいないと断言できますが、春の淡路島で遠めにどんな詠み方をするのかなあと見ていたら干してある蛸壺の回りの雑草を見ていて、蛸壺を詠むのかと思って自分も別の物を探そうとうろちょろして、さて句会で出て来たのは確かに蛸壺でしたが取り合わせた季語が「雀隠れ」。そんな季語あるんだとびっくらこきました。春になって萌え出た草が生長してようやく雀の姿を隠すほどに伸びたさま、という季語で、このひとは自分の俳句にふさわしい季語が詰まった歳時記を何十年もかけてたっぷりと心の中で育てていたのだとわかりました。

ですからわたくしも「猫髭歳時記」をずっと作り続けています。自分のお気に入りの季語だけではなく、自分が気に入った措辞も集めています。たとえば、「御破算で願いましては」。(*^▽^*)ゞ。

引用して返信編集・削除(編集済: 2023年03月09日 12:02)

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