牡馬牝馬みんな東を向くや秋
皆さん、こんにちは。
猫髭さん、あたしの『五月の風』のように、文章のところどころに俳句を添えた俳句エッセイは、俳句が「写真」や「挿絵」の役割を果たします。
エッセイに美しい写真を添えても、素敵な挿絵を添えても、その文章はグッとイメージ喚起力を増しますが、それを十七音で成すのが俳句エッセイです。
猫髭さんの『オーロラ吟行』は、文章はもちろんのこと、写真も素晴らしいですし、俳句も素晴らしいです。
しかし、鮭茶漬けの写真に鮭茶漬けの句が添えてあったり、煮林檎の写真に煮林檎の句が添えてあったりと、写真と句とが説明し合っているのです。
かつて、『炎環』の石寒太さんが編集長をつとめる『俳句あるふぁ』という隔月誌の中に、毎回テーマとなる写真が掲載され、その写真を見て詠んだ句を応募する「写真俳句」のコーナーがありました。
当初、多くの応募作は「写真の説明」をしているだけで、その写真に添える一句としては不合格のものばかりでした。
写真がすべてを語っているのに、それをもう一度俳句で説明されても、読者は「くどい」と感じるだけなのです。
かと言って、写真と無関係の句でも困ります。
写真に句を添える場合は、取り合わせの句の「季語と描写」のように、即き過ぎず離れすぎず「ほどよい距離感」を保ち、写真と俳句とが相乗効果によって第三の世界へ読者を導かなければなりません。
写真も俳句も、どちらも独立した芸術であり挨拶なので、この二つを掛け合わせて第三の世界をイメージさせるというのは、とてもハードルの高いチャレンジです。
しかし、名作映画のラストシーンで流れる音楽が、無言でうつむく主人公の心象を静かに物語っているように、映像と音楽による第三の世界への飛翔は可能ですから、写真と俳句でも可能だと思います。