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スレッドNo.3258

水府川螢川ごと持ちあぐる

子どもの時からわたくしが本ばかり読んでいる青瓢箪だったのを両親が心配して水産学校の体操の教師に頼んで小学校三年から六年までの三年間の夏休みと冬休みを水府村の先生の家で先生の息子たちと一緒に過ごして体を鍛えることになった。先生の長男は国体の選手で次男と三男はまだ中学生だったので下の息子たちと柔軟体操やマット体操や鉄棒などをやらされた。お陰で屈伸で膝を曲げずに掌も甲も着いたし、足の開脚も水平にべたっと着くことが出来、そのまま胸を着けることも出来たので、他のクラスにも呼ばれて体の柔らかさを披露させられたし、校庭で鉄棒の演技を見せたこともある。鉄棒にぶら下がるだけで逆上がりも出来なかった末成りが体操の模範演技をするくらいに体が柔らかくなったのだから、国体を目指す一家に鍛えられると子どもは伸びるものだ。

しかし、わたくしは運動には全く興味がなくて、実は水府村の自然の中の遊びに魅了されていた。何と夏場は馬小屋の二階の藁の匂いの中で広大な水府川と田んぼや畑を見下ろして昼寝したり玉蜀黍や西瓜を食べる解放感は別格で、螢狩では団扇が必須で、歩いていると顔にびしばし螢がぶつかるので団扇で螢を打ち落とすのと団扇で顔を覆って避けないと怖いほどで、水府川を見下ろす山間からいきなり川が光り、川の流れごと川が光って浮き上がった光景は子ども心に黄金の川が眼下を流れるような幻想を見るようだった。原石鼎の句に、

  提灯を螢が襲ふ谷を来(きた)り 大正2年

という句があるが、提灯を目がけて螢が一匹あるいは数匹寄ってきたという鑑賞を見たことがあるが、わたくしの60年以上前の体験では団扇に次々と螢が群舞してぶつかってくるのはまさしく「螢が襲ふ」というそのままの怖さで、目や口に入るのを防ぐために団扇を持たせて顔を守るほど螢が多かった時代があったのである。螢を蚊帳に放って螢の光を楽しんだかというと残念ながら蚊帳の中では螢はほとんど光らなかったように思う。螢にしてみれば蚊帳の外でないと恋は出来ないということか。

夏の早朝の鰻獲りも面白かった。瓶に肉団子を入れて、竹で組んだ筌(うけ。ころばし。鰻は入れるが出ようとすると竹がぶつかって出られない仕掛け)で包んで川に沈めて置くと、次の朝に鰻が入っているという原始的な仕掛けだが、本当に獲れるから面白い。

水府流の泳ぎも教わって、何んとか疲れても焦らずに流れに任せて澱むところで一気に流れから外れて岸に着くといった海の塩による浮力のない川の怖さも覚えた。冬の下駄に古びた包丁を取り付けたアイススケートとか、麦踏とか、肥を畑に撒いたりとか、都会では体験できない三年間の夏休みと冬休みの体験はわたくしの一生の宝物である。ヒグマと言えずにシグマとなってしまう訛りに娘さんたちが涙を流して笑いをかみころしていたことや、美術学校に行っていた娘さんが絵を教えてくれたことも記憶に残っている。シとヒの発音の違いは今でも意識していないと飛行機がシコウキになってしまうが、十歳までに体に入ってしまったお国訛りは直らないものだ。

写真は姫檜扇水仙(ヒメヒオウギズイセン)。夏の朱色の花では柘榴の花と並んで好きな色の花である。背景は柘榴の花。

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年06月13日 00:14)

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