秋分になると必ず咲く花よ
昨日、去年まで「定点観測」にしていた善福寺川を「吟ぶら」してみた。「定点観測」という言葉は俳人の境野大波さんに教わった吟行のやり方で春夏秋冬同じ吟行コースを歩くと季節ごとの自然の表情が体に入って来ると教わった。いつもの道が退屈ではなく毎日新しい発見の道に変わったのである。波多野爽波は自然は一週間毎に表情を変えるから身近にある季節の言葉を自分の歳時記として手書きで作りなさいと弟子たちに自前の歳時記を作らせた。わたくしはそれらを元に、生まれ育った大洗と那珂湊の海へ繋がれた日々を定点観測の道に選び、第二の故郷となった逗子・鎌倉の巡礼古道を定点観測の道に選んだ。東日本大震災以降は、ヘルパーとして仕事で毎日歩く善福寺川緑地公園の自然の移り変わりを車椅子のお客や歩行介助のお客に自然の表情には「魁(さきがけ)」と「旬(盛り)」と「名残(なごり)」があることを話しながら季節の移り変わりを心に刻んで来た。吟行の頭取も(銀行にかけた洒落)も経験したが、2015年にヘルパーの仕事が365日盆暮れ正月も休み無しのスケジュールになり、俳句世間からは完全に引退して「定点観測」からも遠ざかったが、古稀を過ぎてさすがに体力気力も三途の川を渡る程度にしか残らなくなり、仕事は土日は休めるように減らしたとはいえ、余生はどこかの海辺で釣三昧を送ろうと思っていたのが、まさかteacupの閉鎖に合わせて引きずり出されるとはお釈迦様でも御存知あるめえで、こうしてきっこさんのハイヒールでまた踏まれるわけになった次第だが、いまさら「定点観測」には戻れず、どうすっぺと思案のしどころで、はたと気づいたのが「吟ぶら」である。
銀座をぶらつくのを「銀ぶら」というのにかけた洒落で「吟ぶら」なら余生の趣味として、目の玉三角にして俳句の未来は我が身にかかっていると勘違いする鬱陶しい連中とは出会わないので、自分の人生をもっと楽しく生きたい、自分の生きた証(あかし)を言葉にしたいという普通の人々と同じ目線で俳句をはじめとした庶民として暮らしを楽しく生きることぐらいはお手伝い出来るかも知れないと「吟ぶら」な生き方がいいなあと思い始めている。もう未来は草葉の陰だから墓地墓地とぼちぼち行きましょうである。
>わ~、壁紙が新しくなってる! 綺麗~♪
投稿しようとしたが、曼珠沙華はわたくしは花のなかではかなり珍しい独創的な形をしているので感心するが、彼岸花というぐらいでお墓に縁があるから日本では縁起のいい花とは思われていないし、しかし、辞書では曼珠沙華は「《(梵)mañjūṣakaの音写。如意花などと訳す》仏語。白色柔軟で、これを見る者はおのずから悪業を離れるという天界の花。」とあるから目出度い花なので時節柄今しかないなあと思っていたら、早起きアライグマがこの能天気さ♪レッツラゴンで行きましょう。