行く年の螺子の頭を潰しちやつた
>香紙切
「香紙切」でしたか、そう言えば国立博物館と根津美術館にありましたね。根津美術館では良寛の書(といっても展示されているのは本物ではなくコピー)に目がゆくので後で「香紙切」があることに気づきました。三色紙とは全く違う筆法で、書家で書道史家の石川九楊が「香紙切」を新しい段階の女手として評していたので、『河東碧梧桐―表現の永続革命』(文藝春秋)で河東碧梧桐の書を近代日本の最高峰と位置付けた慧眼の持主が言うのだから香紙切もそう見るのかと「升色紙」しか見ていなかった目には勉強になりました。
古筆はほとんどが「伝」で作者が特定されることは少なく、書聖と呼ばれた王羲之の「蘭亭序」すら真筆ではありませんし、三色紙も橘逸勢もすべて「伝」で未だに実証されていませんが、よみ人知らずの中にも優れた歌があるように作品主義のわたくしには「作品ありき」で別に作者が誰でも興味がないと言うと、それは乱暴過ぎるとほぼすべての俳人からたしなめられますが、作品というものは作者が「こう書こうこう書きたい」と思っても書く前の目論見など書かれた作品から「自分はこういうものを創り出してしまったのか」と作者自身ですら受け取るものだから、何か言うのであれば作者ではなく作品が喜ぶような鑑賞をするのが「読む」真っ当な姿で、作者は必ず死んで忘れられるが作品は作者の名前が忘れられても輝きを失わない、「どうして自分はこんなことを書いたのか」と自分でもわからないものを書いたことがないなら作家としてはまだまだですと言うと、そう言えば何でこんなこと書いたのか自分でもわからない句があって、それを皆が褒めるので「無心」の時に出て来る作品があって可笑しくて笑っちゃうことってあると誰でも長いこと入れあげていると、そういう瞬間に出会うはずで、それをわたくしは「表現」と呼んでいて、そこでは作者ではなく作品が「作家の顔」ということになります。フローベールが「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったのはそういうことで、作品が喜ぶような鑑賞がわたくしは好きなので、きっこさんの鑑賞が素晴らしいと思うのは彼女の鑑賞が作品が喜ぶような感賞だということで、「ああ、俺はそういうことを表現してしまったのか」と逆に作者自身が気づかされることです。これを「俳句愛」と言います。褒められたのは作品で作者ではない。まあ、わたくしの場合、作者に会うと俳人に限らず詩人、小説家、歌人、画家、書家、音楽家とほとんど個人的には敬遠したいという手合いが多かったので作品主義を標榜しているという裏事情はありますが、まあこれは普通の会社勤めでもパワハラ・セクハラが日常茶飯事ですからまして政治の権力の欲得の世界は普通の人々には魑魅魍魎の世界で、★ きっこのメルマガ ★195号が銀河鉄道と兎の話だけで楽しめたのは、政治ネタがなかったせいかも知れません。
「あなたが初めて読んだ宮沢賢治の作品は何でしたか?」は期せずしてきっこさんと同じ「よだかの星」で、違うのは今の今まで「よたかの星」と覚えていたためで(黒澤明の映画『椿三十郎』の冒頭の古刹の外でキョキョキョと鳴いてるのがヨタカです)、母にどうしてヨタカは死んじゃうのと泣いて抗議した事を思い出します。お母ちゃんが書いたんじゃないのにね。わたくしも大震災前の「花巻電鉄」に乗ったことがあるので銀河鉄道の舞台はこの辺りかと見回しましたが、「あなたの一番好きな宮沢賢治の作品は何ですか?」となると『銀河鉄道の夜』ではなく、『雪渡り』という短編です。青空文庫にも入っています。
雪がすっかり凍って大理石よりも堅くなり、空も冷たい滑らかな青い石の板で出来てゐるらしいのです。
「堅雪かんこ、しみ雪しんこ。」
お日様がまっ白に燃えて百合の匂を撒きちらし又雪をぎらぎら照らしました。
木なんかみんなザラメを掛けたやうに霜でぴかぴかしてゐます。
「堅雪かんこ、凍み雪しんこ。」
四郎とかん子とは小さな雪沓をはいてキックキックキック、野原に出ました。
この子どもたちや小狐の雪踏みのキックキックキックのオノマトペが「堅雪かんこ、しみ雪しんこ。」「凍み雪しんしん、堅雪かんかん。」という問答と相俟ってキックキックトントンキックキックトントンと実に楽しいのです。宮沢賢治の有名な『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』『注文の多い料理店』『どんぐりと山猫』『セロ弾きのゴーシュ』『オツベルと象』『グスコーブドリの伝記』といった童話ではなく、『雪渡り』や『鹿踊りのはじまり』や『クねずみ』『ツェねずみ』といった変な名前のねずみが一番好きという繊細でお茶目な少年少女がいたら彼らは宇多田ヒカル主題歌の映画『初恋』のような出会いがあるかもしれないと思う。