初春の厠にロダン考へる
明けましておめでとうございます。
今日は餅をお雑煮と磯辺巻と柚子ジャムで十二個一袋全部食べたから明日はトイレでロダンの考える人になりそう。(*^▽^*)ゞ。
元日はひとり正月俳句遊び。うち一句は「青空掲示板」の歳旦三つ物の発句となす。
屠蘇のんで御雑煮食べて初詣
切餅は角あるよつて丸餅に
焼飛魚(やきあご)の出汁の良う出ておぐあんじつ
どんぶりで食べる雑煮や餅三個
餅食うて腹がグルジア共和国
食積や慈姑黒豆栗金団
若水の初湯ぴしぴし肌を噛む
でも、お雑煮は野菜は葱と人参と三つ葉だけで鶏肉を少し入れる(今年は鶏皮)だけだが、焼餅を入れて薄味仕立ての汁がおいしくて正月でなくとも食べたいが、この餅を焼いた香ばしさが正月だけの美味しさなのだと思うので、やはり正月だけの味だろう。大好き。(*^▽^*)ゞ。
しかし、今日のニューイヤー駅伝は面白かった。スポーツはボクシングだけしか興味がないのに(相撲は武道だからスポーツではない)駅伝はみんな大好き。抜きつ抜かれつのどんでん返しのデッドヒートが面白いのだろうか。筋書きの無いドラマの面白さだろうか。人生も先が見えないから面白い。まあ、現実は生きれば済むことだから別に現実を詩にする必要はないが、未踏を詠む詩と違って俳句は現実に足場を置いて季節の移ろいを写すことで生きることの喜びや悲しみや美しさ醜さをあるがままに受け入れる死生眼の芸とも言えるので、俳人にしか見えない聴こえない幽かな季節の移ろいの姿を愛で親しめたら人生は実に沢山の幸せに満ちているとわたくしは車椅子を押しながら先週とは違う自然の移ろいの姿を一緒に探しながら、あ、隠れ蓑の黄葉の一枚に日が当たってそこだけ鮮やかな黄色の美しさがあると、写真では撮れない束の間の自然の恵みを授かりもののように一緒に味わうのである。俳句は詠む事だけが俳句ではなく、そういう移り行く季節の姿に気づく心を自分が持っている幸せを楽しむことも俳句なのだと知ることも俳句の目なのだと思う。