透明な闇の奥より春の闇
今日は節分。陰暦の昔は立春から新年が始まるので、立春の前日である節分に厄を落して新年を迎えるので京では初詣は欠かしても節分は欠かせないほど重要視され、我が家も何十万人と混雑する鶴岡八幡宮に初詣をしたことはなく近所の参拝もまばらな鎮守様で済ませていた。岸田首相の先祖遣唐使の伝来で、文武天皇の大宝律令の時代に宮中で行われたのが初めてとか。倭が日本(読みは同じやまと)と漢字を変えた時代で、「鬼」の語源は「隠」(おん・おぬ)であり、「隠れて目に見えないもの、この世のものではない邪気」を表し、災害や飢餓、疫病などの災い人間の力を超えた邪気(鬼)の仕業だと信じられていた、というか為政者の責任転嫁で都合の悪いことは鬼に転化したので鬼もたまったものではないが、神道は厄落しを宗とするから京では「ふぐり落し」というふんどしを落として厄落しとするといった笑える風習もあったとか。「鬼は内、福は外」という家庭の声は昭和にはどこの家でも聴こえていた。今はどうか。昭和は遠くなりにけり、か。
写真は路傍に石蕗の実の枯れ跡が残っていた。鎌倉に住んでいた頃は石蕗は山の傾斜に咲いていたから余り近寄って見たことはなかったが、実には褐色の冠毛があり蒲公英のように飛散すると知ったのは初めてだった。そうか、どうして崖に咲くのかといぶかしかったが、君は風媒花だったのか。俳句は世界一幸せの目線が低い文藝である。
あ、書きかけで晩飯の煮込み饂飩を作って食べていたら句念庵さんを飛び越していた。兎波さんの「透明」つながりで。