猫の手も借りて鰯の膾かな
8月18日のきっこさんのお話をもう一度引きますね。
あたしの大好きな飯田龍太は、初心の弟子から「どうしたら先生のような立派な句が詠めるようになるのですか?」と聞かれた時、「立派な句が詠みたいのなら、まずはあなたが立派な人物になりなさい」と指導しました。
龍太曰く「十歳の子どもは十歳の句を詠む。二十歳の青年は二十歳の句を詠む。それが『身の丈』と言うもの。二十歳の青年がどこかで覚えた難しい言葉を使って六十歳や七十歳のような句を詠んでも、それは『自身の身の丈を超えた句』であり、誰にも感動など伝えられません。あなたは、今のあなたの『身の丈』を詠み続ければ良いのです」
俳句を始めた初心者が、少しずつ俳句の面白さが分かって来ると、器用な人の中には「凄い句を詠んで先輩たちや師に感心されたい」というスケベ心が頭をもたげる人も出て来ます。でも、それでは本末転倒なのです。
あたしは、この龍太の言葉から、俳句の本質を知りました。あたしはあたし、決して背伸びなどせず、常に「今の自分の身の丈」で詠めば良いのです。背伸びして「自分らしくない句」を詠んでまで誰かに褒めてもらいたいなんて、俳句の本質から最も逆行した愚かな行為なのです。
皆さん、龍太の言う「身の丈」という言葉をしっかりと胸に刻んだ上で、その「身の丈」の範疇で、自分らしい俳句を探して行きましょうね♪
で、昨日のきっこさんの省略文が、
もともとあたしは「立派な句が詠みたければ立派な人物になれ」という飯田龍太の言葉こそが俳句の本質と思っていましたし、これは今も変わりません。
あれ、常に自分らしい俳句を詠むのが大切ですと言ったばかりなのに、何で「立派な句が詠みたければ立派な人物になれ」という飯田龍太の言葉こそが俳句の本質」と肝心の部分を外したのか腑に落ちなかったので韜晦したのですが、「立派な句は立派な俳人に任せておき、あたしたちは自分の背丈の俳句を楽しく詠みましょう」ということですということだったとは。ピッチャーきっこのスライダーを思い切り顔面で受けた猫キャッチャーの図でした。
今日も江戸っ子のお客から「あんたは人を疑うことを知らんのか。言われたことをそのまま鵜呑みにするとは人が良すぎるにもほどがある」とぶち切れられて血圧が50以上アップして、落語の「長短」のように病院の診察介助で漫才やってましたが「気働き」が全く効かない日が疲れるとあるようです。「こんな分かり切ったことを」わからないんですねえ(そういうひとごとのようなこと言うから・・・)。
写真はお詫びの猫髭手開きの鰯の膾。鰯は秋の季語ですが、那珂湊では冬が旬。一番値が高いからです。もう鰯を獲る魚群(なぶら)、鳥山とも云う鰯の群れが鰹に追われて盛り上がり鳥が山と群れる鰯の群れを追える漁師がひとりしか居なくなり、この老人がいなくなると鰯を餌とする鰹も獲れなくなるので那珂湊や大洗は死活問題になり、水戸泉やわたくしが贔屓にしていたシラスの釜揚げ屋さんも年がいって店を畳んだので魚市場はどんどん地物がなくなり中国やロシア産のものも混じるの当たり前になって来ました。鮭は那珂川をまだ遡上してくれますが、稚魚を放したり苦労が堪えない。