向日葵の果てて和睦や秋澄めり
皆さん、こんばんは。
>ウクレレや金婚式の木の葉髪 猫髭
「ウクレレ」と「木の葉髪」を詠んで「ぴろき」さんて、あまりにもダイレクトですね(笑)
>爪紅やレインコートに埋もるる子 撫子
描写だけで詩が立脚していますし、季語との距離感もバツグンですね。
さすがは撫子さんです。
>秋雨の傘に埋もるるをさなかな suzume
この句だけ見れば秀逸なのですが、眼目が撫子さんの句と同じなので、どうしても二番煎じに感じてしまいます。
>秋雨に煙る倫敦バーバリー
英国と言えばロンドン、ロンドンと言えば雨、という当たり前すぎる流れなのですから、普通は大きく飛躍させた「何か」を下五に置いて一句の世界を広げるのが定番なのに、ここにあえて150年前の英国にレインウェアで革命をもたらした「バーバリー」を置くという徹底的なねちっこさ。
すごく面白いです♪
>鳥達の田に睦みゐる秋日差 杜人
俳句で「睦みゐる」という表現を使ってしまうと、どうしても永田耕衣の「近海に鯛睦みゐる涅槃像」や飯田龍太の「さびしくて梅もぐ兄と睦みゐる」などの名句を思い浮かべてしまい、「鳥達」という雑な把握や「秋日差」という投げやりな季語の斡旋が気になってしまいます。
「鳥」はもっと具体的に、季語の斡旋はもっとヒリヒリするぐらいに詠んでほしいです。
見たままなら「白鷺の舞ひ降りてくる刈田かな」と詠めたのに、きっと、しりとりを成立させるために、無理に「秋」を使ったのだと思いますが、もう少しだけがんばってみましょう♪