留守がちの未亡人とて赤のまま
皆さん、こんばんは。
兎波さん、素晴らしい投稿をありがとうございます。
はっきり言わせていただくと、季語の斡旋が緩かったり、季語と描写が同じことを言っていたり、助詞の選択が甘かったり、俳句としては赤ペンを入れたくなる句が何句もあります。
一例を挙げれば、一句目の「去年今年車窓の里の変はり果つ」は、「変はり果つ」と結論を固定せず、「変はり果て」と詠み、将来の復興への希望を残して欲しかったです。
しかし、これが当事者の感覚なのです。新年早々に変わり果てた里の姿を車窓に見た兎波さんは、その瞬間に絶望を感じたのです。この句は、何の被害も受けなかった場所で呑気に正月を過ごしていたあたしが、上から目線で偉そうなことを言っていいような作品ではないのです。
「水の無い生活のまま松過ぎぬ」という句も、俳句作品として磨き上げるのであれば「水の無き暮らしのままに松過ぎぬ」と推敲することもできます。しかし、この句には、兎波さんという被災当事者の生きた声があるのです。ですから、他者は一字一句もいじることは許されません。
ただ、あまりにも良い句なので、一句だけ言わせてください。
「春隣子らが世話する被災猫」という句は、上五と下五が五音の名詞の観音開きになっているのがもったいないです。上五に四音の季語を「や」で切って置けば、兎波さんの人生に残る秀句になると思います。
人日にやつと初湯を賜れり
救出の老婆ふはりと抱かれ雪
なゐ逃れし大鉢に冷素麺
この三句は「きっこ特選」です。
「人日に」の「に」に理屈がついているので、できれば「や」で切ってほしいところですが、これが兎波さんの実感なのですから、この「に」は大切にして欲しいと思います。