味噌汁のこじやんとうまき小六月
冬は味噌汁が一段と旨いと感じられる季節で、これはまず体を温めるために最初に口にするのが汁物という和食のことわりだからだろう。ここのところ芋茎のお味噌汁と蜆の味噌汁と滑子汁に舌鼓を打ちまくっていたので、兎波さんの野趣溢れる滑子汁に我が意を得たり。スーパーで売ってるパックの小さい滑子でも美味しいが野生の滑子が香りも高く歯応えもいいので豆腐と三つ葉、或いは芹との相性は抜群で、新米のどんぶり飯に滑子汁ぶっかけてばくばく食べてたらあっと言う間に体重7キロ超過で、恐るべし新米と味噌汁と糠漬の漬物の三点セットである。
もう無くなったが、宝町に本社ビルが移転して技術センターから仕事で寄ると、京橋の裏露地に「魚がし」(「が」の字が変体仮名で「丸魚がし」と呼ばれる字体で書かれています)という魚の小料理屋があって、癌で亡くなった先代の頑固一徹の親爺さんがわたくしの鯛の兜煮のカマの「鯛の鯛」まで綺麗に残す食べ方を見て初対面から贔屓にしてくれて、以来本社に寄った日に顔を出すようになり、頼みもしないのに「お口に合うかどうか」といろいろな突き出しを作っては出してくれたのですが、先ず最初に旬の味噌汁やお澄ましが出てくるので、これから酒呑むのに最初に椀物を出すのかと驚く客がいると、いや、酒を呑む前に体を温めてから呑むのが胃にやさしいという和食のお客への心配りなんですよと教えてあげると、お客も料理で挨拶かと納得して感謝するし、親爺はますますわたくしを喜んで、自家製の烏賊の腸付き干物(二階に烏賊が丸ごと干してあるのを見つけ、あ、これはゴロ付だと初めて暖簾を潜った夜に「二階の烏賊の丸干物を見かけたんですが今日あたりいい塩梅かと」と声をかけたら険しい顔付きの親爺が相好を崩して「あれに目を留めるとは」と喜んで焼いてくれたのが旨いの何の。北海道の函館は烏賊の卸しで有名で飲屋では腸だけを銀紙に包んで酒と醤油をちょとかけて焼く「ゴロ焼」が香ばしくて地酒が進むのなんので帰りの飛行機の最終便に間に合う時間まで呑んでましたし、佐渡は烏賊の腸ごと塩辛く干した干物が名物だし、わたくしもバーテンダー時代に烏賊の腸を塩をたっぷり振って水抜きをして烏賊墨と半干しにした烏賊の耳とゲソと軟骨のスライスを混ぜた猫髭式「烏賊の墨塩辛」を作って立山のお客の肴にしていたので、烏賊の腸付烏賊焼は干し加減が難しいので東京では食べられないなと思って露地を歩いていたら干し笊に烏賊が並んでいるのを目ざとく見つけたので、笊が取り込まれた夜に初めて暖簾を潜って大正解という出会いでした。日本一長い括弧説明)や自家製の柚餅子(ゆべし。ただしお菓子ではなく、昔作りの刳り貫いた柚子の中に味噌、山椒、胡桃などを詰めて切り取った上部で蓋をし藁等を巻いて日陰で何ヶ月も黒く固くなるまで乾燥させ、薄く切って酒肴とする)、海老真丈(えびしんじょう。実に海老の旨みが凝縮された揚げ物でした)など、あれば必ず出せば誰もが舌鼓を打つという大人の隠れ家で、親爺さん亡き後息子が継いで、奥さんがお客の中で一番お父さんの料理の味を知っているからと、わたくしを推すものだから、アドバイスしながら、本社勤務後は昼飯は毎日「魚がし」で食べるという常連で、飛魚の卵の飛び子とイクラと海草宝石(イクラほどの大きさで海草ゼリーを青や赤に着色したぷちぷち食感の台湾製)を角切りにした刺身と一緒にバラ寿司の上に散らして、半分食べたら八方出汁でお茶漬けにして食べるレディースメニューはお洒落だと評判を呼び、昼はオフィスレディが来るようになりましたが、この散らしに使われる卵焼が築地の有名な卵焼専門店の娘が社長秘書だったので、連れてったら流石卵焼き屋の娘、一発で家の卵焼だと当てて店を感激させ、彼女の紹介もあって、おっかない大将がいる店だと敬遠されていた店も繁盛するようになりました。当時昔の築地には二軒卵焼の専門店があってこの二つの店を大手の寿司屋も使っていましたが、甘さ控えめの社長秘書の店の方がわたくしは好きでした。
歌舞伎を見て俳句を詠む吟行句会をわたくしが仕切った時は句会と二次会は「魚がし」の二階を貸切で使わせてもらい、BGMはわたくしの編集したJAZZのCDを掛けていました。(*^▽^*)ゞ。宝町から京橋、日本橋界隈は大規模な都市開発の嵐とコロナ禍で今は昔、別世界のように様変わりしました。会社の裏手や大手町のブックセンター横に毎晩出ていた屋台のラーメン屋もいなくなって、街の匂いがしないビルばかりが並ぶ殺風景な行過ぎるだけの通りばかりなり。行きかう人はみな下を向いてスマホばかり見ている。歩きながら見なければならないほどの急用でもあるのだろうか。多分、常にスマホを見ていないと空っぽの自分と向き合わなければならないのが怖いのだろう。