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土鈴でしりとり 6963

六角堂絵馬 ⇒ 松阪名所名物 小黒田(こくろだ)団子

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土鈴でしりとり 6962

松阪名所名物 立野明神山の裏白 ⇒ 六角堂絵馬

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土鈴でしりとり 6961

敷島 ⇒ 松阪名所名物 立野明神山の裏白

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土鈴でしりとり 6960

いかめし ⇒ 敷島

引用して返信編集・削除(編集済: 2025年06月20日 16:51)

側面です

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番外

今度の掲示板は「ホーム」とリンクしていて、便利ですね。
「大和の土鈴」6月号・徳川家康の2つ目は、
毛野百鈴(片柳喜一郎)「しりとり1104」 です。

引用して返信編集・削除(編集済: 2025年06月20日 14:11)

●以下は栃木の愛玩家に教えて頂いた興味深い情報です。
ネット上 https://maneki18.hatenablog.com/entry/2018/12/21/221101
「相澤市太郎氏が今戸で学んだ」という説明を見て,
それは間違いだと直感的に思い、現地の事情通に問い合わせた結果の回答です。
この説明によって、毛野・佐野・堀米の成り立ちがよくわかります。

「陶説」という日本陶磁協会が発行している機関誌の「第394号 1986年」の
「栃木のやきもの(13)近藤京嗣」というタイトルのページに相沢市太郎さんの語った以下の一文がありました。(原文ママ)

●相澤市太郎氏談
「片柳喜一郎の父栄次郎は、出流原の人であるが堀米に出て古着の店を開いていた。
栄次郎は峰という人と結婚し、喜一郎と安江の二人の子を儲けた。
峰の兄が東京の蔵前でおもちゃ屋をやっていて、そこに若い日の喜一郎が奉公に行った。
喜一郎は近くの今戸あたりで楽焼と箱庭の置物を作る技術を見覚えた。
喜一郎は年期があけ、明治三十七年頃堀米に戻り、店の裏庭で焼物の仕事を始めた。
当時箱庭は大変流行し、そこに置く田舎家、船、人、鶴、立木などが良く売れた。

私(相沢市太郎)の家はこの隣の観音様の下屋であった。
私が三歳の時父親が死んで女親に育てられたが家が貧しかった。
明治四十四年、私が十歳の頃小学校から帰ると喜一郎さんの窯の手伝いをした。
その頃そこには住込の職人が五六人と、今でいえば私と同年令のアルバイトが五六人いたが、
夏休みになるとアルバイトが二十人位に増えた。
私は単なるアルバイトと違い、少しでも働いて家計の助けにしなくてはならなかったので真剣に働いた。
主人の仕事は中々発展せず、加えて大正時代の不景気で作ったものが思うように売れなかった。
丁度その頃であったと思うが、どこかで瀬戸の職人と知り合い、その職人を入れて本焼の仕事を試みた。
窯を築き、花入や皿などを作って窯を焚いたが、棚板が動いたりつくがつぶれたりして失敗した。
それが確か大正五年頃だったと思う。それで給料も払えなくなり職人は散ってしまった。
私はここを出るに出られない事情もあり、ここに残って仕事をしていた。私は主人のために心をつくして仕事をした。
或る時は作ったものを室に入れ火を焚いて暖かくしておくが、夜九時頃仕事がすみ風呂に入って十時頃火が消えていないか見にいってきて
今度は室の戸をよくしめなかったのではないかと思ってしめに行ったら主人が閉めておいてくれたといったこともあった。
私は十八になって主人に自分で仕事をしたいということを話すと許してくれた。

そして製品は主人が出していない店に出そうと思っていたが、
主人の方から自分が出している栃木の豆定や三枡屋を紹介してくれた。
主人は本当に心の暖い人だった。しかしその頃は不景気に加えて本焼の失敗などあって窯の経営が思わしくなかった。
それを見て栃木の豆定さんから面倒を見るから栃木にこないかという誘いがあり、
息子彦一と一緒に栃木に移った。
楽焼や箱庭を作った窯なので堀米焼といってよいかどうか解らないが、
私の主人片柳喜一郎が堀米焼の始めの人といえるのではないかと思う。
主人は栃木にいって始め市内を流れる巴波川沿いの下河岸に四五年いたが
後釜せんさんの持っていた田を埋めてそこに家と仕事場を建てて移った。これが現在の家だ。
本格的に土鈴を作るようになったのは栃木に住んでからであって、
毛野百鈴を作った時は私も時々行っては泊り込んで手伝ったものだ。」
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●栃木の愛玩家談
相沢さんの自宅兼店舗は犬伏町ですが、道を1本挟んだ隣が堀米町です。
豆定=栃木市の玩具雑貨文具荒物釣具問屋。三枡屋=栃木市の人形店。
相沢さんの父親の家は水戸から佐野に移ってきたそうです。(近所の方の話)

そのほか、相沢市太郎さんが書いた手紙や文章にも上記と同様の内容が書かれていますので、
市太郎さん自身は今戸に修行には行かれてはいないようです。
ちなみに、山口晏弘(壬三氏の父)さんの家は土管を作っていたそうです。

引用して返信編集・削除(編集済: 2025年06月20日 17:24)

明後日(22日)まで栃木県の佐野市葛生伝承館で「佐野土鈴展」が開催されています。その中で毛野百鈴の一部(39個)が紹介されています。
他には相沢市太郎さんや山口壬三さん他、栃木生まれの土鈴たちが紹介されていたようです。
展示の内容は栞の次号に紹介しています。

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