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スレッドNo.107

論語でジャーナル’25

 「子曰く、詩に興(おこ)り、礼に立ち、楽(がく)に成る」(その3)

※浩→高校の漢文の教科書にあった「唐詩」から「七言絶句」を選ぶなら、まず、杜牧の「山行」です。今でもはっきり暗唱できます。書き下し文で読んでも調子がいいからでしょうか。今回はピンイン(発音記号)を添えました。

山 行(杜 牧)
shān xíng(Dù mù)

遠上寒山石徑斜 
yuǎn shàng hán shān shí jìng xié
白雲生處有人家
bái yún shēng chù yŏu rén jiā
停車坐愛楓林晩
tíng chē zuò ài fēng lín wǎn
霜葉紅於二月花 
shuāng yè hóng yú èr yuè huā

 「韻」は2行目「チア」と4行目「フア」です。

遠く寒山に上(のぼ)れば石径(せきけい)斜めなり。
白雲生ずる処(ところ) 人家有り。
車を停(とど)めて坐(そぞろ)に愛す楓林(ふうりん)の晩(くれ)、
霜葉(さうえふ)は二月の花よりも紅(くれなゐ)なり。

 訳すと、
 遠くからやって来て、晩秋の寂しい山に登ると、小石の多い道がふもとから斜めに頂上に向かって続いている。白雲のわき起こるような高いところにも人家があるとは本当に感心したものだ。車を停めて、何となく夕日に照り映えた美しい楓(かえで)の林にうっとりと見とれてしまう。霜に色づけられた楓の葉は、2月に咲く花よりもまっ赤で燃えるように美しい。

 登山をしているのではなくて、牛馬が引く車に乗って山里の小道をゆるやかに流しているのでしょう。俗世間を離れた高雅な境地です。はるか高い峰の白雲が生ずるあたりに人家が見えます。今の季節にふさわしいです。
 私が昔勤務していた高梁市近辺で、こういう風景をよく見ることができました。当時の地名で、高梁市内でも玉川町などがそうで、近隣の賀陽町(今は吉備中央町)にも成羽町(今は高梁市)にも川上町(今は高梁市)にも、そういうところがありました。担任したクラスに「中川」という姓の男子が3人いました。堅志(かたし)君、英雄君、正人君です。家庭訪問するために地図で場所を確かめると、最寄り駅は高梁駅の一駅南の「備中広瀬駅」です。そこから高梁川にかかる「玉川橋」を渡ってすぐに見えました。これなら自転車で行けると判断して、学校の自転車を借りて颯爽と出かけて、玉川橋を越えるまでは順調に進みましたが、そこから先はなんと急な山道、胸突き八丁で、とても自転車を漕いでは登れません。仕方なく天を仰ぐように細い山道を自転車を押して、やっと目的地へ着くことができました。3人の家はみな近所でした。生徒が書いた地図には「等高線」が描かれていなかったので、直線距離で近いと判断したのです。帰り道は全部下りで楽かと思いきや、今度はブレーキが焼け切れそうで、結局また玉川橋まで押して歩いて戻りました。昭和44年ころのお話です。あの子たちも今は70歳を越えています。夏祭りに、親交のあった同僚で、成羽町在住の徳森先生という数学の先生が招待してくださいました。この先生のおうちも高い場所にあり、絶景の見晴らしを楽しみながら、お酒とご馳走をいただきました。向かいの山にときどき狐火が見えました。日清戦争で「死んでもラッパを話さなかった木口小平さん」のおうちが近くにありました。山の途中におうちがあり、成羽川沿いの道から「木口(こぐち)」と書いた大きな看板が見えました。臼でも転げようものなら、麓まであっという間でしょう。ちゃんとネットに載っていますから、引用します。↓
 木口小平:日清戦争で戦死した陸軍兵卒。明治5年8月8日、岡山県川上郡成羽(なりわ)村(現、高梁市)に農家のひとり息子として誕生。小学校を中退、鉱山で働き、1892年(明治25)広島の歩兵第二一連隊第三大隊第一二中隊に二等卒として入営。ラッパ手となり日清戦争に従軍、1894年7月29日緒戦の成歓の戦闘で戦死した。22歳。国定修身教科書で「シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ」と「義勇忠義」が紹介され著名となる。しかし「美談」のラッパ手は当初、同県出身の白神源次郎(しらがげんじろう)と報道されており、事実は不明である。

 次回も「七言絶句」を紹介します。(まだまだつづく)

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