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スレッドNo.11

論語でジャーナル’25

第七 述而篇
1,子曰く、述べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む。竊(ひそ)かに我を老彭(ろうほう)に比す。

 先生が言われた。「祖述する(先人の説を受け継いで述べること)だけで創作しない、古代を信じ、かつ愛好する。そういう自分をそっと老彭になぞらえている。

※浩→「述」は「楯」で、何かに従うこと、つまり先人の学問を祖述することです。「作」は「創作」、新しい文化を創造すること。特に、礼楽の制度を創設すること。
 老彭は殷王朝につかえた賢者・彭祖(ほうそ)が長寿で有名だったので「老彭」と称したという説と、「老子」と「彭祖」の2人を指すという説がある。
 「祖述するだけで創作しない」と、孔子は謙遜しているように見えますが、この立場を確固として守るところに、強い自信があらわれている、と貝塚茂樹先生の解説にあります。ここでの「創作」は小説を書くようなことではなくて、「礼楽」の制度を立案実施することを指すと考えれられます。孔子が尊敬する周公が作った「礼」は「創作」でした。
 私は1991年にアドラー心理学に出会って、それ以来、ずっと「述べて作らず、信じて古を好」んできました。現在、ホームページでやっていることも、また講演・講義もその例外ではありません。たった1回、大手の出版社・明治図書の教育雑誌「学校運営研究」に小論文を書いたことがあります。まだ東京のヒューマンギルドとアドラーギルドが仲が良かったころ、ヒューマンギルドの岩井社長が私を明治図書に私を紹介してくださったことがあります。それで明治図書から、「荒れる学校、早期発見と学校の対応策」というテーマで書いてほしいと依頼が来ました。1997年№464です。今も大切に保存しています。下に全文出しておきます。
 何しろ大手出版社から出してもらうわけですから、事前の準備が大変でした。一応下書きを書いて、即、アドラーギルドの「事例検討会」(当時毎週金曜日午後7時~)に持参して、野田先生&諸先輩方からアドバイスをいただきました。特に、当時、野田先生の直弟子さんで大活躍中の鎌田穣さんからは、手取り足取りで具体的なご指導をいただきました。その結果、すっきりした原稿ができあがり、明治図書へ送ると、そのまま掲載されました。発行後しばらくして「ギャラ」が郵送されました。8000円くらいでしたが、当時の私にはとても高額に感じられました。次の「事例検討会」のとき、お世話になったアドラーギルドで半分を野田先生に差し出すと、先生は「主にお世話になった鎌田さんにあげなさい」とおっしゃいました。言われたとおり、そっくり鎌田さんに差し上げました。こんなことは人生で初めてです。
 講演活動のほうは、長く、ほとんど野田先生の話されたとおりを記憶して、しゃべり方まで真似をして関西弁入りでやっていました。2010年に倉敷工業高校で講座をするようになったころから徐々に、「野田先生の語り口を自分の語り口に直して」語れるようになってきました。そのあと津山工業高校で同校の先生方相手に、月1回~2回、45分の連続講義をしました。さらにそのあと、去年4月から、今の@岡山工業高講座に引き継がれています。
 「学校運営研究」№464から
 「荒れる学級」早期発見と学校の対応策(明治図書、1997年6月号 p46~48

この「荒れ」には、どんな対応が効果的か
教師への反抗 -- どんな対応が効果的か --
 -アドラー心理学の立場から-
 大森 浩(岡山県立岡山工業高等学校教諭)

一、反抗性という『もの』はない
 大前提として、最初から反抗的な生徒は存在しないと考える。生徒の反抗は教師とのコミュニケーションのなかでつくられるので、その責任の半分は教師の側にもある。
 例えば、校門で教師が生徒に「おはよう」と言う。生徒は「何をうるさい!」とは言わないで、たぶん「おはようごさいます」と返してくる。服装違反の生徒を見つけて、教師が「こら、待て!何だ、そのズボンは!」と言う。生徒はきっと「うるせー!」とくる。もしも教師が「あのー、ちょっとお話したいことがあるので、休憩時間にでも私のところへ来ていただけませんか?」と言うと、別の展開になる。なぜ教師が生徒にそのような穏やかな物言いをしなければならないのかと、疑問に思われる読者には、これから述べる提案を受け入れがたいかもしれない。なるほど、そういう方法もあるかと思われる読者には、何かのヒントになるかもしれない。

二、自分が変われば相手も変わる
 反抗に限らず、人間のあらゆる行動は、対人的な場のなかで、誰かに向けられていると考えられる。真空のなかで行われているのではない。ある教師に対して反抗的な生徒が、ほかの教師には従順だったり、また家庭では親に対してとても素直だったりするし、その逆もありうる。その場合、その生徒に『反抗性』というものが存在すると考えないほうがよい。『反抗性』というものが存在するのではなく、教師や親とのコミュニケーションのなかで、反抗という行動が選ばれていると考えられる。おそらく、教師が生徒に反抗させるようなことばをかけるから、生徒はそれに反応して反抗するのではないか。教師がさらに強圧的に出ると、生徒もエスカレートしていく。この場合、コミュニケーションで何が起こっているかについては、あとで詳しく述べる。
 トラブルを起こした生徒と教師を見ていると、その状況を問題だと感じ、何とかしなければとあせっているのは、多くの場合教師で、生徒はその必要を感じていないこともある。学校では普通、生徒を呼び出して一方的に説教をするなり罰するなりの方法で改心を迫る。親を呼んで厳重に注意することもある。もっと極端な場合には、親に相談機関に行かせたりする。学校という場で教師に対して反抗したなら、それは学校という場で解決しなければならない。逆に考えれば明白。家で子どもが暴れるからといって、親は教師に「あんたの責任だろ、何とかしてくれ」とは、普通は言わない。教師は平気で言う。
 改善すべきは、教師と生徒の対人関係であり、コミュニケーションのあり方である。教師がそもそも無理な要求をしているかもしれない。対話のいとまを与えない強圧的な態度をとっているかもしれない。怒りの感情というつぶてを投げているかもしれない。しかも、問題だと感じているのが教師ならば、その教師が対応の仕方を変えるなり、相談機関に行くなりの対応が必要である。これまでの伝統的な対応法では、この視点が完全に欠けていると思われる。多くの場合、学校は、反抗的な生徒の、その性格あるいは心に問題があるととらえてきた。しかし、過去は変えられないし、生徒自身の性格を変えることはそもそも困難であろう。したがって、生徒の反発を招きたくなければ、生徒・教師のコミュニケーションを改善するほうがより有効ではなかろうか。現場の実態を長く見ている。罰による矯正が有効であるとは思えない。
 生徒の性格に、あるいは心に『反抗性』という欠陥があるという見方をすると、実は、学校や教師の側に大きなメリットがある。それは、問題を起こす生徒の責任をクローズアップさせ、教師の責任を回避させる逃げ口上になっている。教師への反抗は、生徒・教師のコミュニケーションのなかで起こっている現象である。つまり教師も片棒をかついでいるわけであり、正確に言えば、教師が先に生徒に反抗させるメッセージを送っていることが多い。生徒はそれに刺激されて反発し、今度はそれに教師が反応するというかたちで、悪循環に陥っていく。相手を変えようと思えば、自分が変わるしかない。無理に相手を変えようとするその強圧的な態度そのものが、相手の反抗をあおるのではなかろうか。

三、原因探しをやめる
 世間の常識では、普通、何か問題が発生すると、まず原因探しをする。例えば、子どもが登校拒否をするのは、小さいころ親が十分スキンシップを与えなかったからだとか、親の養育態度が過保護・過干渉で、子どもの自立が遅れたためだとか、小学校の教師が冷酷だったとか、あるいはクラスメートにいじめられたからだとか。生徒が教師に反抗するのは、生徒自身の性格にひずみがあるからだとか、親が無責任だからだとか。
 それらは多くの場合過去のできごとか、その人の外側のできごとであろう。なるほど、問題行動には原因はあろう。しかしながら、仮に原因を発見したとしても、それらは現場の実践に何ら有効な働きをしない。それどころか、原因探しの結果、こんなにも性格にひずみがあり、家庭背景が悪いのなら、手立てが何もないのではないかと、教師に援助を断念させるかもしれない。過去のは手が届かない。
 そこで、原因は仮にあるとしても、それはひとまず棚上げして、どういう目的で問題行動を起こしているか、というふうに、発想の転換をはかることにする。
 そうすると、さまざまなことが見えてくる。(つづく)

四、問題行動の四つの目的
 アドラー心理学では、人生の究極の目標は、仲間とつながりを持てること、つまり共同体への所属であると考える。誰もが、できれば良いかたちで、仲間に受け入れられて所属したいと願う。それが達成されないとき、無視されて孤立するよりも、たとえ悪いかたちででも人とつながりを持ちたいと願って、問題行動が始まる。子どもの問題行動は、どんな目的で、何を達成しようとして行われるかについては、長年の研究がある。
 ルドルフ・ドライカース(1897年~1972年)によれば、子どもの不適切な行動(問題行動)の目的は、次の四種類にまとめられる。
(1)注目・関心を引く
(2)権力闘争をする
(3)復讐をする
(4)無能力を誇示する

五、問題行動の発生
 例えば、教室で、教師のその存在を認められ受け入れられていると感じている生徒、成績が優秀であるとか、品行方正であるとか、教師の期待する役割をきちんと演じきれていると信じている生徒は反抗する理由がない。他の教師には反抗するかもしれない。教師の本来の役割をクールに理解して、きちんと生徒を援助していこうと決心していくこと、そして、怒りの感情をつぶてに、強圧的に教師側の都合を生徒に押しつけないようにすることが大切である。特に、思春期になると、もはや一方的な命令では、生徒は動かない。
 教師の善意・熱意は妥当なものであり、伝えたい内容や、期待することがらもたぶん妥当なものだろう。ということは、伝え方、コミュニケーションが問題であろう。教師が、指示・命令に代わるコミュニケーションの技術を修得し、実施することで、生徒の反抗は劇的に減少するはずである。
 さて、すべての生徒が教師に好かれるわけではない。学業面でも素行面でも教師やクラスメートに注目してもらえない生徒は、教師の注目を得るために、まず、私語やいたずらや居眠りや忘れ物などをするかもしれない。教師が注意すると、注目されたことになるので、満足する。先に述べたように、無視されるより、叱られてでも注目・関心を得ようとするのはこれにあたる。教師はこのとき、わずらわしくは感じるが、怒りはない。本気で教師が怒るほどの悪いことはしない。
 しかし、この段階で教師がその生徒の行為の目的を理解することなく、不適切な対応をすると、生徒は次の段階の作戦に入る。すなわち、教師に勝とう、あるいは負けまいという権力闘争の段階である。この過程に入った生徒に、教師が強圧的に指導を加えようとすると、まず間違いなく反抗する。なぜなら、従えば負けたことになるから。良いかたちで所属できないなら、悪役になってでもつながりを保とうとする。まさかと思われるかもしれないが、学校現場では頻繁に起こっていることである。

六。最も頻繁に起こる権力闘争
 権力闘争、あるいは主導権争いに入ると、教師はやたらと腹が立つ。怒りがこみあげてくるので、「おのれ、ここであとに引いたら、なめられる。一発ガツンとくらわしておかなければ」といきり立つ。この教師の作戦は、間違いなく疲れる。というのは、思春期の特徴のひとつとして、彼らはほかのことはともかく、体面(いわゆる面子)をことのほか重視するので、教師が強圧的に接すると、生徒は、自分の立場が不利になることもかまわず、ただ教師に勝とう、負けまいと必死に抵抗してくる。思春期の子どもの面子は絶対につぶしてはいけない。教師が彼らの面子を立てれば、彼らは絶対に反抗しない。ここのメカニズムを教師が理解して、権力闘争になりそうだと思ったら(怒りの感情が起きたら)、引き下がること、巻き込まれないことが肝要。それではなめられると、多くの教師は考えるが、実は勝とう・負けまいの権力闘争に陥っていて、引き下がれば、生徒はそれ以上追及してこないし、また自分の面子を立ててくれたことに感謝し、尊敬もするようになる。
 権力闘争の過程では、教師が生徒に真に伝えたいことは絶対に伝わらない。怒っていること、勝ちたいと思っていること、つまり感情だけが伝わって、メッセージに内容は伝わらない。大事なことで、必ず理解してほしいと願うことは、怒りに左右されない、勝ち負けに影響されない穏やかなコミュニケーションのなかでしか伝わらない。
 遅刻してきた生徒がいて、教師がその理由を知りたいなら、「こらー!今何時だと思っているっ」と言うと、「うるせー!」とくるはず。代わりに、「頑張って走ってきたのに惜しかったね」と言うと、「そうなんだ。もう5分早く家をでればよかった。ゆうべゲームやりすぎてね」という具合に、先方から語ってくる。
 技術レベルとして、メッセージはできれば命令語でなくて、「依頼語」を用いたい。依頼語というのは、疑問文(~してくれませんか?)か仮定文(~してくれたらなあ)のかたちである。その特徴は、相手が「ノー」と言えるということ。具体的には、また別の機会があれば述べたい。

 「別の機会」はついに来ませんでした。当時は、アドラー心理学はマイナーで日本カウンセリング学会などでもほとんど存在が認められていませんでした。最近は岸見一郎先生の『嫌われる勇気』の人気のおかげで、ずいぶん広く知られるようになりました。が、それはそれでまた新たな問題も起こっているようです。野田先生も亡くなられた今、純正アドラー心理学をきちんと継承・伝達していきたいです。

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