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スレッドNo.111

論語でジャーナル’25

11,子曰く、もし周公の才の美ありとも、驕(おご)りかつ吝(やぶさ)かならしめば、その余は観(み)るに足らざるなり。

 先生が言われた。「たとえ周公ほど優秀な才能に恵まれていたとしても、もし、威張り屋でしかもケチだとしたら、それ以外のことはもはや論ずる価値はないということだ」。

※浩→周公は、周王朝の政治と文化の創始者・周公旦です。孔子は彼を完全な人格と意識していました。「才の美」は、美しい完全な才能で、もしも万一、そういう人格の中にも、傲慢と吝嗇(りんしょく)であったとしたら、その人格の他の部分の美点はすべて帳消しになり、目も当てられないことになるだろう。孔子の厳しい人間観が表れています。
 驕慢(傲慢、高慢)と吝嗇、どちらも気をつけたいです。
 驕慢と言えば、まず有名な「平家物語」です。
 祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
 高校の「古典」で習いました。「無常観」に貫かれています。歴史上の権力者の栄枯盛衰は枚挙に暇がありません。
 私は“見栄の大森”でしたが、傲慢ではなかったと、自分ではそう思っています。幼少時より、特に母親からは「お行儀良く」と躾けられて、常に謙虚にふるまうよう心がけていました。そのご利益がたくさんありましたが、ときどき度が過ぎて、場違いで慇懃無礼なふるまいになったこともあったと思います。アドラー心理学に出会って、元祖アドラー博士の著書『人間知の心理学』を野田先生が講読される講演会に参加して、それまでの自分の態度の欺瞞性を思い知らされました。アドラーの著作の部分を引用します。

 評価を求める努力が高まるや否や、精神生活のなかでは緊張が高まるようになり、その緊張は、その人間が力と優越という目標をさらにはっきりと見据え、さらに活動を強めてその目標に近づこうとするように作用する。彼の生活は、大きな勝利を期待するようなものになる。そのような人間は即事的な生き方ができなくならざるをえない。なぜなら彼は、人生との関連を失うからであり、また自分が他人にどのような印象を与えるか、他人は自分についてどんなふうに考えているか、という問いに常にかかずらっているからである。彼の行動の自由はそれによって著しく妨げられ、最も繁く現れてくる性格特徴、つまり虚栄心が顕わとなる。
 虚栄心というものは、いかなる人間にも(たとえ痕跡だけだとしても)見られるものである。そして虚栄をあからさまに見せることは立派なことではないので、虚栄心はたいていの場合隠されており、いろいろな形を取る。一定の謙虚さを示しながらも、虚栄的であることもある。人間というものは非常に虚栄心が強いので、他人の判断をまったく意に介さないか、あるいは、それを強欲に求め、自分の都合のいいように利用しようとしたりする。
 虚栄が一定の程度を越えると、それは非常に危険なものになる。虚栄というものが人間に、実質よりも見かけにかかわるような、ありとあらゆる無益な仕事や浪費を強いるものだということや、また自分のことばかりを考えさせること、せいぜいのところ自分に対する他人の判断のことばかりを考えさせることは別としても、人間は虚栄によって現実の接触を失いがちなものである。彼は、人間的な諸関連に対する理解もなしに、人生との関係もなしに空しく動きまわる。彼は、人生が彼に何を要求しているかを忘れ、自分が人間として、人生に何を寄与すべきであるかを忘れてしまう。虚栄というものは、他の悪徳と違って、人間のあらゆる自由な発展を阻害してしまう。なぜなら彼は、結局のところ絶えず自分のために利益があるかどうかということばかり考えているからである。
 多くの場合人間は、虚栄とか、傲慢とかという代わりに、もっと美しく響く名誉心という言葉を用いることによって自分を慰める。そして自分のことを自慢して、いかに名誉心に富んでいるか、などと言って誇る人が多くいる。またしばしば「努力精進」という概念だけを用いることもある。これは、公共のために役立つ事柄にとって有益である限りにおいて、認められるものである。しかし、たいていの場合、これらの概念は、著しい虚栄心を隠蔽するだけである。……
 その際、彼らの仲間の人間は、一般的に言って、まさに不愉快になる。彼らは、これらの人々の批判に大いにさらされる。虚栄心の強い人は普通、自分自身の人格の何らかの欠陥に対する責任から逃れようとする。彼はいつも自分が正しくて、他人が間違っていると思うのであるが、人生において大事なのは正しいということではなく、自分がかかわっていることを前進させ、他者のそれを促進するのに貢献するということこそが大切なのである。こういうものの代わりに彼の口から聞こえてくるものといえば常に、嘆きとか言い訳ばかりなのである。
 われわれが今ここで問題にしているのは、人間精神のさまざまな術策である。つまり、自分の虚栄心が傷つけられることのないように、そして自分の優越感が傷つけられないままであり動揺させられることのないようにしようとする様々な試みである。
(『人間知の心理学』p218~220)(『人間知の心理学』A=アドラー著、1927年、高尾利数訳、春秋社)

 吝嗇と言えば、「始末屋」と「ケチ」の違いを、NHK連続テレビ小説「ごちそうさん」(2013年)で、ヒロイン「め以子」の小姑(キムラ緑子さんが熱演)和枝ねえさんからしっかり学びました。彼女は婚家で厳しい姑につかえたが、子どもを幼くして亡くしたあとに離縁され、西門家に戻り、この家の主婦の座を奪い取り、家を一切取り仕切っている。嫁いびりが超弩級で、あまりのひどさにかえって快感を覚えるくらいでした。何をやっても完璧で、しかも始末屋です。ヒロインが新妻として、食事などを切り詰めていると、「ケチと始末は違いまっせ」と叱られます。
 わが母も、一見「ケチ」のように見えることもありましたが、いざという時には出費を惜しみませんでした。「肝が据わっている」と言うと、母は「使うべきときには使う」と豪語していました。ですから吝嗇ではありません。この点については私も母を見習っています。日ごろはかなり質素に暮らしていますが、いざというときはどっと散財しますから。

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