論語でジャーナル’25
14,子曰く、その位にあらざれば、その政(まつりごと)を謀(はか)らず。
先生が言われた。「責任ある地位にいない場合、政治のことを論議してはいけない」。
※浩→文字どおりに受け取ると、政治家でないと政治のことをあれこれ言ってはいけないことになります。でも、孔子の真意は、弟子たちに無責任な放言を慎み、責任ある地位に就いたとき、実行できる政策を考えるように諭したのではないか、と貝塚先生は解説されます。これなら納得できます。
それにしても、わが国では、国会での討論のお粗末さにはあきれます。確かに与党にもいろいろ問題はあるでしょうが、国会での野党の仕事は、与党議員や大臣の揚げ足取りではないでしょう。まるで、低俗な週刊誌記事のように、与党側のしくじりやスキャンダルを嗅ぎつけては、本来は政策をめぐって論議する場である委員会とかで、急を要する内政外交問題にはほとんど触れないで、ただ「総理や大臣の辞任」を迫るだけのようです。議員に「国政調査権」というのはあるでしょうが、三権分立での国会の役目は、法令の制定でしょう。その本務を忘れてほしくないです。彼らにはとにかく、「政権交代」が最優先目標なのでしょうが、先の「**党内閣」の無様さを国民は忘れてはいないでしょう。いつまで「桜を見る会」がどうのこうのと、まるで、某国が「怨みは永久に忘れない」とか言っていたのを思い出して、そのしつこさにあきれかえっています。
アドラー心理学では、「不適切な行動に注目しないで、適切な行動に注目する」という勇気づけの大原則があります。現政権の成果もたくさんあると思うのに、それらにはまったく触れません。達成できていることは無視して、「勇気くじき」オンリーです。結局、国民が賢くないといけないのです。「愚民の上に悪しき政府あり」です。エーリッヒ・フロムの名著『自由からの逃走』を読み返しました。第一大戦後できた「ワイマール憲法」という最高度の民主的憲法下で、ナチス政権が独裁体制を確立していったいきさつがよくわかります。国民が愚かだと、民主主義は崩壊するのです。今、この日本のどこに民主主主義が存在するのか疑問視するようなことにならないことを望みます。高市内閣に期待したいです。