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スレッドNo.116

論語でジャーナル’25

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A 子曰く、狂にして直(なお)からず、侗(とう)にして愿(げん)ならず、悾悾(こうこう)にして信ならずんば、吾これを知らざるなり。

 先生が言われた。「熱狂的なくせに一本気ではなく、子どもっぽいくせにまじめでなく、馬鹿正直なくせに誠実でない。このごろの人間は、自分にはさっぱりわからないよ」。

B 子曰く、狂にして直ならず、侗にして愿ならず。悾悾にして信ならざるものを、吾これを知らず。

 先生が言われた。「熱狂的な情熱家でありながら正直でないもの。子どもっぽさを持ちながら地道でないもの。馬鹿正直にしてアテにならない人間、そうした人間に私は出会ったことがない。

※浩→Aは貝塚先生、Bは吉川先生の読み方です。これは同じことを言っているのでしょうか、正反対のことを言っているのでしょうか?
 貝塚先生の読み方はわかりやすいです。吉川先生は、古注と新注のそれぞれを紹介しています。古注では、「狂」「侗」「悾悾」という性格は、同時に「直」「愿」「信」という美点を持っているのが普通である。この法則にはずれるものを私は知らないと解釈しています。これに対して新注では、「狂」でありながら「直」でない、「侗」でありながら「愿」でない、「悾悾」でありながら「信」でないものはみな「まやかしもの」だから、私はそれらに対して、責任を持って応対しないと解しています。吉川先生は、新旧どちらにしても、孔子が、過度な、中庸を失した性格にも関心と同情を持ったことを示していると述べられています。このことで両説の共通点が見つけられたような気もしますが、それでも考えれば考えるほど、わからなくなります。こうなると、貝塚先生の明快な解説のほうが受け入れやすいです。
 いつの時代でも、年配の人から若い人を見ると、理解困難なことがあるのでしょうが、大昔の、春秋末期の青年たちの行動と心理に孔子もお手上げだったのだろうと、貝塚先生は新注を採用されます。「近ごろの若い者は……」という嘆きの声がよく聞かれますが、若かろうが古かろうが、理解できる人は理解でき、理解できない人は理解できないのだと思います。人にはそれぞれ「認知(統覚)バイアス」という色眼鏡があって、それを通して世界を体験しますから、本来、他者は理解できません。アドラー心理学では、「私的感覚」といって、カウンセリング場面でも、「この人はなにゆえにかかる場合にかかる行動をするのか」を推理する際に参照する、「その人なりの価値観」を見つけることが重視されます。
 サスペンスドラマのラスト近くで、犯人が追い詰められて、「お前に何がわかる!」と叫ぶシーンがよくありますが、このセリフの意味がいまいちわかりません。「わかってもらえないから罪を犯した」「わかってもらえれば罪を犯さなかった」と言うことなら、もしも人にわかってもらっていたら罪を犯さなかったんでしょうか?人にわかってもらおうがもらうまいが、「してはいけないことはしてはしない」「したくなくてもしなければならいいことはする」のです。これは野田先生が残された名言です。

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