論語でジャーナル’25
17,子曰く、学は及ばざるが如くするも、猶(なお)これを失わんことを恐る。
先生が言われた。「学問をするには、(泥棒を追っかけるように)一生懸命に、目的を追っかける態度でなければならない。それでもなお、対象を見失う恐れがあるのだ」。
※浩→「及」は、「去りゆくものをあとから追いかける、追いつく」という意味です。時々引用しますが、先々代・三遊亭円楽師匠は「まだ足りぬ。語り語りてあの世まで」とおっしゃっていたことを思い出します。十七世・中村勘三郎丈は「まだ足りぬ。踊り踊りてあの世まで」でした。どちらも、努力・精進のすえ、「もうこれで完璧だ」ということはありえない。生きている限り、われわれは「途上」にいます。野田俊作先生は、「アドラー心理学を一生懸命学んでも、ある日突然、寝ても覚めても居ても立っても、そのままで完璧にアドラー心理学だなんてことはありえない」というような意味のことをおっしゃっていました。これは、「常に努力すること」の大切さと、「努力を怠って成果を失うことへのおそれ」と、しかもなお「不完全でいる」勇気を持つようにという戒めのように受け取れます。
有名なお釈迦様の最期の言葉は、「比丘たちよ、今こそおまえたちに告げよう。諸行(しょぎょう)は滅びゆく。怠ることなく努めよ」でした。←『マハーパリニッバーナ経』『南伝大蔵経』
『マハーパリニッバーナ経』は、釈尊の最晩年に、ラージャガハ(王舎城)から入滅の地クシナーラまでの最後の旅の様子を伝える経典で、釈尊の老いて死を迎える心境が随所に吐露されています。釈尊の最後の旅は自らの故郷カピラヴァットゥをめざしたと言われているので、旅半ばにして入滅したことになります。うわー、アドラーも講演先のスコットランドの路上で亡くなりました。死は私たちそれぞれに避けることのできない、最も重い現実として向かってきます。そのため、私たちは死という事態を自分なりに意味づけをして受け止めざるをえません。自ら迎えなければならない死を見つめることで、それまでの自分の生や死後に思いを向け、生きることの意味を考えるのです。同じことが、非常に近しい人の死に直面したときにも起ってきます。そして、その近しい人が自分にとってかけがえのない人であったとき、その死は自らの死以上に深い悲しみや動揺を引き起こします。
旅の途中で釈尊は重い病にかかって、死を予感します。しかし、侍者のアーナンダをはじめとする弟子や信者たちにとって、釈尊が入滅するということはまったく予想しなかった事態でした。差し迫った現実としてそのことに直面しなければならなかった弟子や信者たちの動揺は大きかったでしょう。その時、釈尊は入滅を前にして、アーナンダたちに次のように語ったのです。
「アーナンダよ、お前たちは次のように思うかもしれない。“教えを説かれた師は去ってしまわれた。われわれの師はいらっしゃらない”と。しかしそれをそのように見なしてはいけない 。アーナンダよ、私が説いた教えと制定した戒律が私の死後じゃ、お前たちの師である」。まるで、野田先生のお言葉のようでもあります。そのように弟子たちの動揺を静めた後、さらに釈尊は、「アーナンダよ、悲しむな、嘆くな。私は、前もって言ったではないか。“すべての愛しいもの、好ましいものと分れ、離れ、別になる”(愛別離苦)と。生じたもの、因縁によって作られたもの、破壊されるべきものが、破壊されないような道理がありようか」と語り、そして、自らの最後の言葉として弟子たち全員に「比丘たちよ、今こそおまえたちに告げよう。諸行は滅びゆく。怠ることなく努めよ。」と言い残したのです。「諸行」とは、因縁によって作られたすべてのもの、すなわちすべての現象や存在のことです。そして、それらは必ず滅びゆく、無常なものです(諸行無常)。このことは釈尊の身心も例外ではありません。釈尊の教えはこの「諸行は滅びゆく」ということの上に展開しています。したがって、釈尊は、自らの死を題材として教えの根本を示しながら、すべての弟子たちに「たゆまぬ精進」を促しているのです。師から弟子たちへの最後のメッセージにふさわしいものとなっています。
私のアドラー心理学カウンセラーの経歴も34年になりました。なるほど、ここに至っても、野田先生のような鮮やかな「ライフスタイル分析」はできません。それでも、まだ先がもうちょっとありそうでありがたいことです。日々の小さな努力で、ほんのわずかずつでも、向上したと感じられるときがあり、それが至福のひとときです。仏道修行では、『徒然草』第四十九段の「老い来たりて、始めて道を行(ぎょう)ぜんと待つことなかれ。古き塚、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病を受けて、忽(たちま)ちにこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方(かた)の誤れることは知らるなり。誤りといふは、他のことにあらず、速(すみや)かにすべきこを緩(ゆる)くし、緩くすべきことを急ぎて、過ぎにしことの悔しきなり。そのとき悔ゆとも、かひなからんや。……」が有名です。老いがやって来て、そのときに、はじめて仏道を修行しようと待っていてはいけない。古い墓は、大部分は年少で死んだ人のものなのである。このように、人はいつ死ぬかわからないのであるから、思いがけず、病気にかかって、にわかにこの世を去って死にゆくときになって、やっと、今まで過ぎ去ってしまった期間の間違っていたことが自覚されるものなのである。その間違いというのは、他のことではない、速くしなくてはならないことをのんびりとあとまわしにし、いつやってもよいことを先に急いでやって、生涯を経過してしまったことであって、それが死に際に後悔されるのである。しかし、そのときになって、後悔しても、何の効果があろうか。……
ところが神経症的に、強迫的に、止まることを知らないあくなき目標追求も、人を不幸にするようです。『老子』第四十四章には、「名と身といずれか親しき、身と貨といずれかまされる、得と亡といずれか病(うれ)いある。このゆえにはなはだ愛すれば必ず大いに費(つい)え、多く蔵(ぞう)すれば必ず厚く失う。足を知れば辱(はずか)しめられず、止まることを知れば殆(あやう)からず。以て長久なるべし」とあります。
心の安寧を望むなら、こちらが有力です。この主張からも、先の先には「中庸」の徳へと辿りつきそうです。
多事多端な折り、どれから着手するかの優先順位を決める際の基準は、「私的感覚」が影響するのでしょう。人それぞれに価値観が違いますから、どれを先にするかを見れば、その人がどんな人か、何を目ざして生きている人かが、わかります。
私は、幼少期から母親に、「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」と教えられ、いつしか、「のちのちの楽のためには、今の苦労は厭わない」タイプの人になっていったようです。アドラー心理学では人格のパターン分けを好まないのですが、グループワークなどで体験した、「最優先目標」の4つのパターンというのは、なかなか味わいがありました。人が、いよいよせっぱ詰まったとき、何を最優先目標にするかということです。その4つとは、「A:安楽でいること」「B:みんなに好かれること」「C:支配できること」「D:有能・優秀であること」です。