論語でジャーナル’25
20,舜に臣五人ありて天下治まれり。武王曰く、予(われ)に乱臣十人ありと。孔子曰く、才難(かた)しと。それ然らずや。唐虞の際、斯(ここ)において盛んなりとなす。婦人あり、九人のみ。(文王、西伯となりて)天下を三分してその二を有(たも)ち、もって殷に服事す。周の徳はそれ至徳と謂うべきなり。
舜帝には有能な臣下が五人いて、天下は良く治まった。周の武王は言われた。「自分はさいわいに、政治に関する十人の賢者の家来がいる」。孔子が言われた。「しかし、人材を得るのが困難であるというが、まったくそうではないか。唐つまり堯と、虞すなわち舜とが相次いだ以後では、まったく周の初めこそ盛代であったとされるが、婦人が一人混じるから、賢臣は九人にすぎなかった。文王が西伯となって天下を三分して、その二を保有されながら、残りの三分の一を領した殷に仕えられたのだから、周の徳こそは完全無欠であったと言うべきである」。
※浩→ここも、過去のすぐれた政治への賛美ですが、時代が孔子自身の時代の王朝・周の創業時代に下りました。舜の五人の臣は禹・稷(しょく)・契(せつ)・皐陶(こうよう)・伯益です。禹は洪水を治め、次の夏王朝初代君主。稷は農事の長官で周の遠い祖先。契は民政の長官で殷の遠い祖先。皐陶は司法長官。伯益は狩猟の長官でした。
武王の「乱臣」の「乱」は反対の「治」の意味で、「治臣」のこと、「すぐれた補佐・賢臣」のこと。その十人は、弟の周公・旦、同族の召公・奭(せき)、その軍師の太公望、畢(ひつ)、栄公、大顛(たいてん)、閎夭(こうよう)、散宜生(さんぎせい)、南宮・适(かつ)、そして武王の母・太姒(たいじ)です。母親は「臣下」と言えないので、彼女を除いて九人です。
周は、武王&文王によって勢力範囲が拡大して、当時の中国の三分の二を保有しました。殷には三分の一が残されただけでしたが、周は、一大名としておとなしく殷王朝に使えました。殷王朝の悪政が極まったとき、はじめて革命を起こしました。そのような周の国の道徳の高さを、孔子は最上のものと評価しています。
このように、孔子は、古代の周王朝の高い道徳を模範として絶賛しています。太古・古代のあり方を模範とするというと、老子が「いにしえの無為自然の道に復帰」するよう説いたのと似ているようですが、老子は文明を捨てて原初に帰ることを善しとしていますが、孔子は、過去を模範とはしてはいますが、文明を捨てよとは説いていないです。孔子は「仁義礼楽」の「徳」を身につけるように説き、老子はむしろそうした「文明」を捨てて「太古に復帰」せよと説きます。そして老子は、万物の根源として「道」を想定しているのに対して、孔子は、「怪力乱神を語らず」「未だ生を知らず。いずくんぞ死を知らん」と、超自然的なものについては口を閉じて語りません。現実主義です。
私にも昔、公私ともに苦難の時期がありました。その際、逆説的な処世法を説く老子の思想と、千変万化する現象世界そのものを「道」として従容と受け入れる荘子の哲学に惹かれたことがあります。のちに、アドラー心理学を学ぶようになって、野田先生から、「万物の根源」を説く思想は、土着思想だと教わってショックを受けました。それ以来、しばらく遠ざかっていました。それで、アドラー心理学と似ているかもしれな(?)孔子の思想になじんできました。それで、今こうして「論語でジャーナル」を書いています。
ところで、「根源としての道」はさておき、逆説的な処世法は今でも役に立ちます。治安の良い時代には儒家思想が向いていて、乱世には老荘思想が向いています。現在は決して「治安の良い時代」とは言い切れないようで、老荘思想が生き方のヒントになることがしばしばあります。アドラー心理学でも「パラドキシカル」な対応が適していることがあります。孔子も「温故知新」とか「巧言令色鮮(すく)なし仁」と言っています。太古の君主を模範にしていて「過去を無視」しているわけではないと思います。
心理療法では、理論の折衷はありえないですが、技法の貸し借りは行われています。学校の現状もまさに「乱世」のようで、不登校、校内暴力、学級崩壊、授業不成立、等々、枚挙に暇がありません。アドラー心理学がメジャーのフロイト派やユング派への「アンチテーゼ」だとすれば、儒家思想へのアンチテーゼである道家(老荘)思想が、処世法に関しては有効であるに違いないでしょう。荒れ狂う生徒たちに、教師が「仁義礼楽」を説いて、それですんなり指導に従うでしょうか?かといって荒廃した学級から教師が逃げ出すわけにはいきません。まずは現状から逃げることなく、現状を冷静に観察した上で、生徒たちの反道徳(パラドキシカル)な言動に対して、カウンターパラドクスで迫るというアイディアが一考の価値ありそうです。