MENU
15,222

スレッドNo.123

論語でジャーナル’25

2,達港党の人曰く、大なるかな孔子、博く学びて、名をなすべきなしと。子、これを聞き、門弟子に謂いて曰く、吾何をか執(と)らん。御(ぎょ)を執らんか、射(しゃ)を執らんか、吾は御を執らん。

 達港集落のある人が言った。「偉大なお方だ、孔先生は。博く種々の学問をしながら、何の専門家であるという局限された名声はお持ちにならない。すべてのことに通じ、かつ、すべてを包容した偉人でいらっしゃる」と。
 先生がこの噂を聞かれてから、内弟子に言われた。「じゃあ、私は何を専門として主張したらいいのかね。馬車の御者が一番の専門だと言おうか、あるいは弓を射ることだと言おうか。まあ、御者であることが専門だとしよう」。

※浩→この条は、孔子の謙遜を示しているようですが、その謙遜は、自分の行為に十分な自信を持つ人の謙遜で、微笑ましく気持ち良く響きます。当時の風潮としては、文武の一芸に習熟して専門家として世に立つことだったのに対して、孔子は、専門にこだわらず、広い学問を習っていたところに孔子の偉大さを認めた、この達港党の人はなかなかの人物だったのでしょう。孔子はよほど嬉しかったのでしょう。そこで「何を専門にしようか、御者かな……」と冗談を言っている。孔子はとかく苦虫を噛みつぶしたような堅物かと想像されがちですが、機嫌のいいときはこういう軽口を言うユーモアに富む人だったのです。まさに野田先生のようです。野田先生は確か、ロケットを発射する人になりたかったと、早期回想でおっしゃっていました。何をするかというと、人々をロケットに乗せて宇宙へ打ち上げるんだそうです。実際、カウンセリングや講座でもってそれを実践されました。
 なお、孔子の時代の君子の必須の教養は、礼、楽、御、射、書、数の「六芸(りくげい)」で、国立大学の学生に教えた教養です。
 自分の能力・行為に自信のある人が謙遜するのは、微笑まして気持ち良いとのことです。能力の乏しい人は謙遜するよりもむしろ虚勢を張るでしょう。ソクラテスの「無知の知」というのは、「己れの無知を知る者が真の知者」というとでした。真の知者というのは、自分を「まだまだ不十分」と感じていて、さらに、ちょうど「あすなろ」の心のようにで、「明日は檜に」と、研鑽を積んでいるはずです。ただし、自分で自分の能力を正当に評価することも、また大切なことではないでしょうか。自己勇気づけとでも言いましょうか。自分の能力を他者に対してひけらかすのではありません。これはちょうど、「共同体感覚は自分が実践することであって、他者に強いることではない」と、常々教えられていることと一致します。『こち亀』の両津さんだと、「己れにやさしく、他人に厳しく」とか、「笑ってごまかせ自分の失敗、厳しく罵れ他人の失敗」となるのでしょうが、あれはコミックの世界で、現実に実行すると、人間関係がぶっこわれます。
 「六芸(りくげい)」は、別の言いかたをすれば、“文武両道”のようなことでしょうか。野田先生もまさに、文武両道でした。講義でも講演でも、その広い広い見識が溢れ出していました。単なるアドラー心理学の学習にとどまらず、音楽、仏教、政治、経済……と、人生のあらゆる側面に関する教養が語られました。西洋のルネッサンス期のダヴィンチは“万能人”と言われました。こういうマルチの才能を高く評価する一方で、「一芸に秀でる」という考えもあって、面白いです。孔子は、冗談で、「専門は馬車の運転か」と言っていますが、私はどうでしょうか。手先が不器用な私は、おしゃべりが得意です。早期回想に、小学生のころ、妹と一緒に、大好きだった伯母さん(父の姉)の家にお泊まりに行ったとき、お布団に3人並んで寝ていました。伯母が「ヒロちゃんは大きくなったら何になる?」と聞かれて、私は鏡を顔の前に立てて映った顔を見ながら「アナウンサー」と答えました。実際には、アナウンサーにはなりませんでしたが、おしゃべりが商売の教師になり、退職後はアドラー心理学の講義・講演をしています。やはり、早期回想の路線を生きています。

編集・削除(未編集)

ロケットBBS

Page Top