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スレッドNo.126

論語でジャーナル’25

5,子、匡(きょう)に畏(おそ)わる。曰く、文王既に没す、文は玆(ここ)にあらざらんや。天の将(まさ)に斯(こ)の文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後(おく)れ死す者、斯(こ)の文に与(あずか)ることを得ざらん。天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人それ予(われ)をいかんせん。

 先生が匡の町で襲われたとき言われた。「周の文王はとっくに亡くなられた。文王の伝えたもうた文化は──自分で胸を指さされて──ここに存在しているではないか。神さまが私の身についている文化を滅亡させようとおぼしめさるならば、生き残った者は、私の身とともに滅びるこの文化に沃(よく)することが不可能となる。神さまがわが身についた文化を滅亡させまいとおぼしめさるるならば、匡の民のごとき者が私をいかんともできるはずはあるまい」。

※浩→「匡(きょう」は邑(ゆう)、つまり町の名前で、現在のどこかは定説がないそうです。「畏」は、普通は「おそれる」ですが、ここでは「武器をとった闘争」の意味に使われています。「文王」は周を開いた王で、徳望高く、周の政治・文化の基礎を作りました。「文は茲(ここ)に……」は、孔子が自分の胸をさして「文化がここにある」と言いました。文王が作った「礼・楽」を「文化」と言っています。
 ややこしい文ですが、貝塚先生の解説がわかりやすいので、「世界の名著」から引用しておきます。

 孔子は紀元前497年、魯から衛に亡命したが、その冬か翌年の春かに、強国・晉(しん)の豪族・趙簡子(ちょうかんし)の本拠地・朝歌(ちょうか)に行こうとして、国境の城・匡に立ち寄った。大学者・孔子の晉への入国を阻止しようとする、衛の陰謀か、軍隊の襲撃を受けて、やっと危機を脱したことがあった。孔子が56,7歳のときだった。匡の町はずれを孔子の一行が馬車を連ねて旅していると、突如、攻撃を受けた。弟子たちは慌てて騒いだ。魯の勇士の子で武術のたしなみのある孔子は、少しも騒がず、弟子たちを励まし、この言葉を語り、自分の胸を指さして、文王は没してその文化の伝統は「ここ」にある。もしも天が周の文化を滅ぼすつもりなら、自分はここで一命を果たすかもしれない。一行が逃げて生き残った者があるとしても、私とともに文化は滅びるから、永久に文化にあずかることはできない。天がもし文化を滅ぼさない気なら、匡の人が私をどうすることもできないだろう。弟子の中には、子路、冉求(ぜんきゅう)のような勇士もいる。孔子のこの一言を聞いて奮起して、一致して血路を開いたのだろう。孔子は普段から、周の文化は天命によって自分の中に生きて伝わっているという自信を持っていたが、その素振りはどこにも見せなかった。このとき初めて盤石(ばんじゃく)のような自信を表明し、この危機を切り抜けた。

 この解説の中に、貝塚先生は、吉川幸次郎先生の解説をほぼそのまま取り入れていると記されています。吉川先生の偉大さが、ここでもよくわかります。
 私たちにとっての“大師匠”はもちろん野田俊作先生です。2020年に亡くなられて、直接お教えをいただくことができなくなりましたが、教わった内容は、孔子がしたように、私も自分の胸を指さして、アドラー心理学の智慧と技術は「ここ」に入っている、と言えそうな気がします。西原(さいばら)理恵子さんの「毎日かあさん」をもじって、自分のことを「毎日アドラー」と呼べるように、日々精進を怠らないように、学びを続けます。

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