論語でジャーナル’25
8,子曰く、吾知ることあらんや、知ることなきなり。鄙夫(ひふ)あり、来たりて我に問う、空空(こうこう)如たり。我その両端を叩いて竭(つ)くす。
先生が言われた。「私が物知りだって?いや物知りなどではないよ。しかし、名もない男が訪ねてきて私に質問し、その態度が馬鹿正直だとしよう。私は話の始めから終わりまで問いただして、十分に答えてやるまでだよ」。
※浩→「空空如」は、クソ真面目な態度。「鄙夫」は身分の卑しい、したがって知識の乏しい男。
ここも新旧で解釈が違います。古注は、「私はインテリぶることがあろうか。そうしてインテリの特権として、知恵を自分だけの専有とし、人から問われた場合に、知識の出し惜しみをするということがあろうか。そうした態度はない」と読みます。
新注は、私は知識を持っている者と言えるであろうか、そうではない。無知な人間なのだ。実際は知者ではないが、知者のように思われるのは、誰の質問に対しても、丁寧に答えるところから生まれた評判にすぎない」です。
いずれにしても、ソクラテスの「無知の知」と同じようです。真の知者であろうと、世間からそう思われているだけであろうとも、「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」で、謙虚で、人からの質問には、その真意を確認して、丁寧に答えていく。かくありたいものです。野田俊作先生の講演会には、必ず「質疑応答」がついていて、先生はたくさんの質問に次々と即答されました。時々、講演そのものよりも、「質疑応答」のほうが面白いのがあったりしました。私も、先生を倣って、自分が講義・講演したあとに、質問に答えていますが、だいたい即答できます。慎ましく謙虚(?)なはずの自分が、こんなことがよくできるものだと、ときどき不思議になります。何とかできているのは、アドラー心理学を学んでいるからです。この世で起こることについては、アドラー心理学のどこかに回答があります。これは助かります。野田先生がご健在のときは「カウンセラー養成講座」が毎年夏にあって、全8日のうち2日を見学参加していました。受講者同士が、カウンセラー役とクライエント役になって、実際の自分の抱えている問題をケースとして扱います。まずクライエントから情報収集しますが、この時点で解決の「落としどころ」を決めてかからないと合格しないのですが、これが難作業で、よくよくアドラー心理学の理論と技法に通じていないときるわざではありません。先生は、このころは「パセージ」と「パセージ・プラス」のどこかに回答があるとおっしゃっていました。昔に比べると、ずいぶんシンプルになった感じがします。現場ではこれだけでは対応できない体験を私もときどきしました。そういうときには、ずっと昔教わった古典的技法を引っ張り出すと、うまく運びます。で、現在進行中の講座では、主に「温故知新」方針で講義をしています。概ね好評のようです。