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スレッドNo.132

論語でジャーナル’25

11,顔淵、喟(き)然として歎じて曰く、これを仰げば弥(いよいよ)高く、これを鑚(き)れば弥(いよいよ)堅く、これを膽(み)るに前に在(あ)れば、忽焉(こつえん)として後(しりえ)に在り、夫子、循循然として善く人を誘(いざな)う。我を博(ひろ)むるに文をもってし、我を約するに礼をもってす。罷(や)まんと欲すれども能(あた)わず。既に吾が才を竭(つ)くすに、立つ所ありて卓爾たるがごとし。これに従わんと雖(いえど)も由(よ)る末(なき)なり。

 顔淵(顔回)が、「はあっ」と溜息をついて言うには、先生の人格は、仰げば仰ぐほどいよいよ高く、先生の人格の中に切り込もうとすればするほど、いよいよ堅い。ふと見れば、前にいられるかと思えば、ふいにまた後ろにいられる。つまり先生の人格と、その人格にもとづく行動は、自由自在である。先生は順序立てて、巧みに人を導かれる。文化で私の視野を広めてくださり、礼の法則で私を人間の教養の中心へ引き寄せてくださる。そうした先生の教育に私はついていかざるをえないのであり、途中でやめようと思っても、そうできないようになさる。私は自分の才能のあるだけを出し尽くしたつもりでいるが、先生はさらに新しいものを、高々と樹立されて、遙か彼方から、私を招かれるように見える。ついていこうと思っても、なかなかよるべき方法がない。

※浩→孔子の最愛の弟子・顔淵が、先生を讃えた言葉です。私にとっては、そのまま恩師・野田俊作先生を讃える言葉としてピッタリです。もっとも、野田先生にはご迷惑かもしれませんが、悪口ではないのでお許しいただけるでしょう。
 野田先生は、2時間くらいの単独の講演会では、台本もメモもなしで、お話なさいます。質疑応答も当然そうですが、このことは前にも述べました。もっとすごいのは、各種講座です。例えば、カウンセラー養成講座は全8日間、通算48時間の講義と実習を台本なしでなさいます。何も見ないでどんどんお話が飛び出します。図表もすらすらと板書されます。休憩時間に、親しくなった受講者たちが一塊になって話していると、いつの間にか後ろに立たれています。近づかれても「人の気配」を感じさせません。忍者みたいです。ああしてアンテナを張り巡らして、情報収集なさっているのでしょうか。総会などでは、いつも児玉先生と最後列の端の席に並んで座って、2人でひそひそ話をしていて、ひょいと横を見ると、野田先生が立たれていてびっくりします。時には2人の会話にいつの間にか入られています。ちょっとエッチな話などしていると、突然、そばで「朝からなんてことを」とニコニコとおっしゃって、サッと去っていかれます。講義では理論を私たちに伝授され、実習では「共同体感覚」体験・実践の後押しをしてくださり、事例検討会では、痒いところに手が届くような丁寧なアドバイスをしてくださいました。顔淵のように、あとをついていこうなどと、大それたことは考えたことはありませんが、アドラー心理学の学習を、途中でやめようと考えたことは、顔淵と一緒で、一度もありません。顔淵のように、自分の才能をあるだけ出し尽くそうにも、「あるだけ」がまことに乏しい。自分の「知恵袋」は、底のほうにほんの少しだけ入っていて、あとは大きな空洞です。まだまだ学びたい一心ですが、先生亡きあと、直接学ぶことはできませんが、せめて、残された文献・資料から今後もしっかり学び続けます。

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