論語でジャーナル’25
14,子、九夷(きゅうい)に居らんことを欲す。或る人曰く、陋(いや)しきことこれを如何(いかん)せん。子曰く、君子これに居らば、何の陋しきことかこれあらん。
先生が東方海上の未開民族・九夷の国に移住しようとされた。さるお方が言われた。「むさ苦しいところですが、どんなものでしょうか」。先生が言われた。「君子がそこに住めば、自然に文化に化せられます。むさ苦しいことなど問題ではありません」。
※浩→春秋時代の中国では、周辺諸民族を、「東夷」「西戎(せいじゅう)」「南蛮」「北狄(ほくてき)」と、軽蔑していました。後漢ごろには、東方海上の「未開民族」として、①玄莬(げんと)②楽浪③高麗④満飾⑤鳧臾(ふゆ)⑥索家(さくか)⑦東屠(とうと)⑧倭人⑨天鄙(てんぴ)の九つを「九夷」と称しました。このうち①~③は朝鮮半島、④~⑦は満州、⑧は日本です。“中華思想”というのがあります。ネットによくまとまった記事がありました。
↓引用します
漢民族は自国を世界の中心にあって、花が咲きほこっている国という意味で「中華」と言い、その周辺の異民族に優越すると考えていた。そのような漢民族の思考を中華思想、あるいは中華意識、華夷思想とも言う。渭水流域の中原に成立した周王朝に始まり、春秋・戦国時代を経て形成され、漢代には確固たる漢民族の世界観となった。周辺民族をその方面別に東夷、南蛮、西戎、北狄と呼んだ。漢民族はこれらの民族を異民族ととらえたが、多くは民族的に同一である。また、これらの言葉には当初は蔑視の意味はなかったが、周代になると犬戎(けんじゅう)と言われる北方民族の侵入が始まり、戦国時代から秦時代・漢代になると強大な匈奴帝国の圧迫を受けるようになって、それへの恐怖心から蔑視の意味が含まれるようになった。
漢・後漢や三国時代、隋・唐など漢民族の王朝は、周辺諸民族に対して中華思想にもとづいて冊封体制という国際秩序を作り上げた。その間、五胡十六国から北朝の諸王朝や契丹(きったん)族の遼や女真族の金(浩→井上靖『敦煌』に登場している。映画ではその王を渡瀬恒彦が演じていた)などの華北支配を受けることもあり、特に宋代の朱子学では漢民族の中国支配の正当性を強調するため、華夷の別を強調するようになった。
モンゴル人の元(げん)、満州人の清(しん)による中国支配の時期には、中華思想は変質し、非漢民族でも儒教や漢字など漢文化を受容すれば「中国の民」であると考えられるようになった。朝鮮(李朝)では、清に服属しながら、清は非漢民族ではないので、むしろ儒教の正統性は朝鮮が継承したという意識から小中華思想という事大的な考えが生じることとなった。
そして「中華民国」から、中華という語句は中国のすべての民族を含む国家の名称として用いられるようになる。なお、自国を他の諸民族の国家に優越するという民族感情はどの民族にも認められる(古代ギリシア人が異民族をバルバロイとしたことなど)のであり、偏狭なナショナリズム(その最も行き過ぎたものがナチスのアーリア人信仰)に陥らないためにも他の文明に対する理解と寛容が必要であり、世界史の学習もそのために有効であると言える。(引用終わり)
魯国の政治は、豪族の専制によって腐敗していましたが、特に季氏の執事・陽虎が紀元前505年~501年にかけて、季氏を抑えて一時魯の国政を左右するに至って、混乱は極に達しました。孔子はこのころ海上に逃れようとしたと考えられます。人気の学者である孔子を味方にしようと熱心に勧誘していた陽虎が、この噂を聞いて、引き留めようとして、「むさ苦しいところですが、どんなものでしょうか」と言ったのに対して、孔子が「君子がそこに住めば、文化の威力でもってむさ苦しさは消えてなくなる。なんのむさ苦しさがあるものか」とはねつけました。昔、西郷隆盛が何度も奄美大島へ流されましたが、そのために島の文化が向上しました。今は、大都市部から地方への転勤をイヤがる人がいますが、有徳・博学・多彩な人材の地域間の交流によって、全域の文化が向上していくことを考えると、転勤を避けるようなチンケなことを考えるのは恥としたいものです。相棒・児玉先生は、岡山から備前へ、さらに倉敷へ、さらに津山へと転勤されて、アドラー心理学が拡がりました。なお児玉先生は西郷どんと同郷の“よかにせどん”です。残念なのは、倉敷も津山も学校の中だけのアドラー心理学で、地域に根ざしていかないことです。ここまで思うのは欲が深いのでしょうか。かつて野田先生が、「創造的思想も時代とともに土着化していく」という論文を出されました。今アドラー心理学がそうならないことを祈ります。そしてそのための実践をささやかながら怠らないようにします。