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スレッドNo.137

論語でジャーナル’25

16,子曰く、出でては則(すなわ)ち公卿(こうけい)に事(つか)え、入りては則ち父兄に事う。喪の事は敢えて勉めずんばあらず、酒の困(みだ)れを為さず、我に於いて何かあらんや。

 先生が言われた。「外に出れば公や卿のような身分の高い人たちにお仕えし、家に入れば父や兄など目上の人に奉仕する。葬式の服喪には懸命に努めるし、酒を飲みすぎて悪酔いすることはない。それらのことは私にとって何でもないことだ」。

※浩→孔子が君主や父兄に仕える「忠孝」の道の基本を説き、葬儀や飲食のマナーなど「礼節」の道の原則を語った部分であり、これらのことは君子であれば当然のこととして実践できなければならなかったのです。最後の「我に於いて何かあらんや」は解釈が分かれているようです。新注には「これらの四つの行為さえも私には恵まれていない」と謙遜の意味に読むそうです。また、「この四つの行為だけは私にあるけれど、その他には何の取り柄もない」とも読む説もあるそうです。吉川先生も貝塚先生も「特別に困難なことではない」と読まれています。「家の外では職務に忠実で、家の中では家族相和し」は、現代においても当然のことです。今は身分の上下はありませんが、組織においての役割分担はありますから、このことを混同しないようにしないといけないです。今の子どもたちが、何か行動を制限されたり禁止されたりすると、「自由だろ」と反発することがあるそうですが、これは「自由」の意味を取り違えています。彼らが言う「自由」は“気まま”(恣意)、“自分本位”ということで、「人間共同体」に位置づけられている自分の存在を意に介さない、自己執着以外の何ものでもありません。アドラー心理学が「共同体感覚」を謳い、また基本前提(理論)に「社会統合論」(対人関係論)を含むゆえんを周知させたいものです。これしか人類存続の道はほんとなないんですから。
 福沢諭吉の「自分に由(よ)る」という訳は素晴らしいと言われます。また、長坂寿久先生によれば、私たち日本人が教えられてこなかった概念として“Public”、つまり「公共」があります。もう1つは「自己決定権」だそうです。自己決定権、“Right of self-determination”という言葉は、国連憲章の第1条第2項に出てきます。第1条の第1項は国家間の平和について目指すべきことが書かれていて、第2項は、その国家間の平和を実現するために、人々の状況がどうあるべきかということが書いてあります。その中に“the principle of equal rights and self-determination of peoples”とあります。
 われらが野田先生は、「自由」と「権利」を“選択肢”とおっしゃいました。これはわかりやすかったです。「選べる」ということが自由なので、時に「選べない=やらないといけない」ことがあります。これを「責任」とおっしゃいました。責任は義務に近いですが、義務は強制されているように感じられますから、責任のほうがしっくりきます。世間では「権利」は「義務」をともなう、と言われますが、どうも「権利」ばかりが先行して、「義務」や「責任」のほうは忘れられがちです。
 今朝テレビで、NHKの気象担当の人が、「最近、温度が冷えてきました」と言っていました。こういう言葉には私は敏感で、「あれ?おかしい。温度は下がるんでしょ。空気が冷えてきたんでしょ!」とひとりでムキになって反論していました。そういえば、少し前にやはりNHKのアナウンサーだったか、「満点の星空」と言っていました。これは絶対変です。「満点の星」でしょうが。贔屓の歌手が紅白歌合戦に落選したので、少しムキになっています(笑)。

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