論語でジャーナル’25
19,子曰く、譬(たと)へば山を爲(つく)るが如し。未だ一簣(き)を成さざるも、止(やむ)るは吾(われ)止む也。譬(たと)へば地を平らにするが如ごとし。一簣を覆(ふく)すと雖(いえ)ども、進むは吾往く也。
先生が言われた。「例えば山を造るようなものだ。あと簣(もっこ)一杯の土を盛るだけになって、そこでやめたら自分がやめたのだ。例えば地面を平らにするようなものだ。わずか簣(もっこ)一杯の土を掘るなら、それは自分が進めたのだ」
※浩→上の訳は、貝塚茂樹先生によります。他に次のような訳もあります。
「革命とは山を築くようなものだ。たった一かごの土が足りなければ、それで終わりだ。革命とは地をならすようなものだ。たった一かご土を取り除けば、革命はそれだけ成功に近づく!」
中華人民共和国に好都合の訳のようです。
「修業というものは、たとえば山を築くようなものだ。あと一簣(き)というところで挫折しても、目的の山にはならない。そしてその罪は自分にある。また、たとえば地ならしをするようなものだ。一簣でもそこをならしたら、それだけ仕事がはかどったことになる。そしてそれは自分が進んだのだ」
吉川幸次郎先生の訳はこちらで、貝塚先生と同じです。行動は、あくまで自己の努力により、自己の責任に帰することを説いています。
築山を築くのに、ほとんど完成に近づいたのに、あと一簣というところでやめたら、それはほかならぬ自分がやめたのあって、責任を他に転嫁することはできない。また、たとえば地ならしをするようなものであって、完成はまだほど遠いが、一簣分でもそこをならしたら、その進歩は誰のものでもなく、自分自身の前進である。
アドラー心理学のキーワードは「自己責任」です。学校教育の4S(英語では4R)というのがあって、「尊敬」「責任」「社会性」「生活力」です。トップの「尊敬」は、人から尊敬される人になるという意味ではなくて、人を尊敬する人になるということです。カントの“人格の尊厳”を思わせます。「他の人の人格を手段として用いることなく、常に同時に目的として尊重せよ」。人格を手段として用いることは、20世紀には「人間疎外」と称されました。2つ目の「責任」が今回のテーマです。日本では、責任を取るというのは、江戸時代の侍なら「切腹」を意味し、現代の会社員や役人なら、辞職することですが、もとの英語でresponsibiltyで、「応答する+能力」です。旧約聖書のノアも、アブラハムも、神に呼ばれたとき、逃げないで、「はい、ここに」と応じました。宗教抜きで言えば、「状況からの求めに応じること」です。死んでも辞めても、責任を取っていません。逃げただけです。そして、逃げるときの言い訳が「悪いあの人、かわいそうな私」でしょう。「あいつのせいでこうなった。自分は被害者だから責任はあいつにある」と。野田先生はこういうのを「神経症的策動」とおっしゃいました。要するに「無責任」ということです。世の中これで溢れていて、そのためにずいぶん住みにくくなっています。交通法規では、信号のない横断歩道に歩行者が待っていたら、車は必ず一旦停止することになっていますが、岡山県ではほとんど守られていません。そういうところにお巡りさんがいてくれたら、絶対に「違反切符」をたくさん切れるでしょうに。テレビの記者が、ドライバーに「なぜ止まらないの?」と聞いたら、「車が通り過ぎたあとで歩行者渡ればいい」と答えていました。法令を熟知していないのかもしれませんが、あまりにも無責任です。遵守率の高いのは長野県でした。子どもたちが横断歩道を渡るとき、止まってくれた車の運転手に、手を挙げて挨拶していました。ずっと昔からそうだったそうで、今かつて子どもだった人がドライバーになっていてきちんと止まりますから、好循環が形成されています。大事なお手本です。4Sの残りについては、またいつかということで、今回はここまでにしておきます。