論語でジャーナル’25
20,子曰く、これに語りて惰(おこた)らざる者は、それ回か。
先生が言われた。「私が教訓を述べているとき、おしまいまでちっとも飽きずに聞いているのは、顔淵だけだな」。
※浩→孔子の弟子・顔淵(=顔回)は、まるで奇蹟のような人で、学問も礼法も武術も素早く習得しただけでなく、何より人格者で、若い弟子の集まった孔子塾の、時として殺伐になりがちな空気を和らげたと言います。
「語る」というのは、古代の塾などで老先生が若い弟子たちの問いに応じて教訓を暗唱して聞かせることでした。教訓は、話が長くなるので、その意味がよくわからない弟子は退屈したそうです。校長先生の朝礼の教訓みたいです(笑)。が、顔淵は意味がよく理解できるので、最後まで少しもイヤな顔をしないで聞き入っていました。
私には、野田俊作先生がここでの孔子のようです。野田先生のお話は、プロ向けのアカデミックなことから、一般の聴衆向けの、関西風のお笑い要素を交えた講演に至るまで、まったく退屈ということはありませんでした。そして、たくさんの「金言」を授かりました。私は今もそのほとんどを暗唱しています。そしてたくさんの講演ネタもほぼ暗記して、次の世代の人たちにお伝えしています。相棒の児玉先生は、職務上はもちろん、プライベートでも私の話をとても興味を持って聞いてくださいます。フィットしたら“メモ、メモ”と印をつけられます。歌舞伎のストーリーから落語に至るまで、ところかまわずしゃべる私に、それこそ顔淵のように、イヤな顔ひとつされないで、真剣に聞いてくださいます。今は、さらに一時、先生の次の世代の方々が参加されて、熱心にアドラー心理学を学ばれました。今はほぼ全滅です(笑)。残った少数精鋭はほんとに「エリート」だと思います。今、講座においでいただいている方々はとは、純正アドラー心理学の灯火を絶やすことにないように、学びを継続していきたいです。