論語でジャーナル’25
3,子曰く、徳の脩(おさ)まらざる、学の講ぜざる、義を聞きて徒(うつ)る能(あた)わざる、是れ吾が憂いなり。
道徳の修養を怠ること、学問の勉強を怠ること、義(ただ)しいことを耳にしながら、そのただしさへわが身をもっていけないこと、善からぬことと気づきながら改められないこと、この四つが私の心配である。
※浩→朱子は、「自分自身の行動についての憂い」であると読んだが、荻生徂徠はこれに反対して、「門人たちの行動についての心配であった」としています。朱子の説のほうが穏やかであろうと吉川幸次郎先生は解説されます。
「曽子曰わく、吾日に我が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを傳うるか」に通じるものがあるようで、私も朱子の説のほうがすんなり納得できます。強引にアドラー心理学に当てはめると、「門人たちの行動」というのは、「私の課題」でなく、他者の課題ですから、原則として関与できないと考えます。ただし、「門人たちの行動に対する憂い」となると、これは「私の課題」になりますから、他者を操作することなく自力で解決しないといけません。ここでは孔子は、「徳の脩(おさ)まらざる、学の講ぜざる、義を聞きて徒(うつ)る能(あた)わざる、是れ吾が憂い」と“相対的マイナス”の側を述べていますが、「ではどうなろう」という“相対的プラス”の側は述べていません。他の箇所で出てくるのでしょうかねえ。
私は、自戒として「人格の向上に努め、学問を怠らず、正しいとわかったらできるだけ実践したい」と常々念じています。まあ理想ではありますが。
恩師・野田先生のお言葉では、「カウンセリングというのは自分の競合性・支配性との闘いである」です。面談で解釈や助言が奏功すると「やった!」と喜び、うまく運ばないと落胆するのは、根強い競合性があるからで、来談者と真に横の関係なっていないためであると考えられます。この大前提に戻って、自己点検を怠らないようにしないといけません。特に「助言の出し過ぎ」にはくれぐれも要注意です。できれば助言はほとんどしないで、「開いた質問」を重ねて、来談者が自ら解決を見いだしていけるようにリードするのが最上だと思います。実際、野田先生が徹底的にそうなさっていたのを、わが眼で見ました。当然、抵抗に遭ったら即撤退し出直しまが、常々、抵抗になど遭わないコミュニケーションを励行していないといけません。