論語でジャーナル’25
30,子曰く、与(とも)に共に学ぶべし、未(いま)だ与に道に適(ゆ)くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべきも未だ与に権(はか)るべからず。唐棣(とうてい)の華(はな)、偏としてそれ反せり、豈(あ)に爾(なんじ)を思わざらんや、室これ遠ければなり。子曰く、未だこれを思わざるなり、それ何の遠きことかこれあらん。
先生が言われた。「一緒に同じ学問をすることができても、一緒に同じ道をゆくことができない。一緒に同じ道をゆくことができても、一緒に同じ位置に立つことができない。一緒に同じ位置に立つことができても、一緒に同じ利益を求めることができない。
詩に、 唐棣(とうてい = にわざくら)の花、風にゆらゆら、飛び立つばかり思わざらめや、主(ぬし)の家居のあまりに遠くして、とある」。
先生はまた言われた。「真実恋しているのではないからだ。もし真実恋していたら家の遠さなどものの数ではないはずだ」。
※浩→吉川幸次郎先生は、「その人と一緒に勉強をすることはできる。しかし勉強の結果として、同じく道徳の方向に赴きうるとは限らない。仮に同じく道徳の方向に赴きうるとしても、その人とともに、何か仕事をして、1つのことを樹立しうるとは限らない。仮に何かを樹立しうるとしても、臨機応変の処置をとらねばならぬ非常の場合、そうした行動をも、その人と合致させうるとは限らない。言葉の表面は、以上のように読めるが、より具体的に、何を意識しているかは、よくわからぬ」と述べられています。
一方、貝塚茂樹先生は、ただ、新注では、「唐棣の華」以下を独立の文としているが、古注を採用したと断られたうえで、「同学の人間が同じ主義で活動することは難しい。同じ主義で働くことはまだやさしいが、同じ位置に並んで落ち着くことは難しい。それでも同じ位置に落ち着くことはまだやさしい。同じ利害関係を持つと、とかく争いが生じやすい」。孔子はこう述べてから、「恋する者同士だって家が離れると心も離れ離れになる」という流行歌を引用した。だが、もし真実愛していたら、家が離れていることは問題ではないはずだ。もし朋友が真実仲が良かったら、利害関係で仲たがいになることはないのかもしれない、と言っている」と解されています。
「同学の人間が同じ主義で活動することは難しい」。そうだそうだと納得します。「私的論理」は人それぞれに違います。「私的論理」を支える価値観を「私的感覚」と言います。同じ学問を学ぶというのは「行為」です。同じ学問をしていても、動機も目的も個々人で違うでしょう。仮に「同じ主義」で働いていても、「同じ位置に並んで落ち着くことは難しい」というのも当然です。「同じ位置」が何を意味するのかわかりませんが、職場でなら「同じポスト」のことでしょうか。そして、最終的には、もし、主義も位置も同じだとしても、「利害関係」が生じると、結局は利害が絡むと人間関係がこじれるということになっています。深く納得できます。同学・同主義・同位置でいたとしても、利害関係がきっかけで仲違いすることはよくあります。私はかつて心から信頼していた知人にかなりまとまったお金を貸しました。でも、約束どおり返済されたのは、初めの2,3回で、あとはなんだかんだと延期されているうちその人が個人破産したため、踏み倒されました。最近その人は亡くなったと聞きました。バチが当たったのだと考えて自分を慰めています。あれ以後、人にお金を貸すのを断固やめました。
『孟子』の冒頭に──
孟子、梁の恵王に見(まみ)ゆ。王曰く「叟(そう=五十歳以上の老人の敬称)千里を遠しとせずして来たる。またまさにもってわが国を利することあらんとするか。孟子対(こた)えて曰く、王なんぞ必ずしも利を曰わん、ただ仁義あるのみ」(梁恵王篇)とあります。(子罕篇:完)