論語でジャーナル’25
6,君子、紺緅(かんしゅう)をもって飾らず。紅紫(こうし)もって褻服(せっぷく)となさず。暑に当たりては縝(ひとえ)の絺綌(ちげき)、必ず表して出ず。輜衣(しい)には羔裘(こうきゅう)、素衣には麑裘(げいきゅう)、黄衣(こうい)には狐裘(こきゅう)。褻裘(せつきゅう)は長く右の袂を短くす。必ず寝衣(しんい)あり、長(たけ)は一身有半(いっしんゆうはん)。狐貉(こかく)の厚きもって居る。喪を去(のぞ)いては佩(お)びざるところなし。帷裳(いしょう)にあらざれば必ずこれを殺(さい)す。羔裘玄冠(こうきゅうげんかん)してはもって弔せず。吉月には必ず朝服(ちょうふく)して朝(ちょう)す。
君子というものは、物忌みの色である紺や喪明けを示す色である赤茶色で衣服を飾ったりはしない。紅や紫といった派手な色が混じった普段着を着ない。暑い季節には、葛(くず)の布目がしっかりした衣服や、布目が大まかな生地の単衣(ひとえ)の上着を、体を隠す下着の上から着るようにしなければならない。(寒い時期には)黒い子羊の毛皮の上に、黒木綿の上着を着る。白色の上着であれば、白の仔鹿の毛皮が合い、黄色の上着であれば、黄色の狐の毛皮が合うだろう。いつも着る毛皮は長いので、邪魔にならないように右の袂を短くしている。寝巻きを着るが、その長さは身長の1.5倍になっている。客人には、狐や狢(むじな)の分厚い毛皮を下に敷いて、その上に座っていただく。喪が明ければ、喪中に外していた装飾品の玉などを再びすみやかに身に付ける。朝服として着る帷裳(いしょう)は特別な仕立てなので、それ以外の服であれば適切な形に裁断する。慶賀のときに着る羔裘(こうきゅう)と玄冠(げんかん)を身に付けて、弔問に訪れるようなことはない。月の初め(一日)には、必ず朝廷の礼服を身に付けて出仕するのである。
※浩→わー!!!この難字にはもう勘弁してほしい。
君子は孔子を指しているという説もあります。普段着、暑いとき、寒いとき、寝巻き、喪中、喪明け、朝廷に出仕するとき…、あらゆる場面での衣服のあり方が述べられています。こんにちのわれわれの生活では、ここまでの細かい区別は必要ないです。私も在職中は公私にわたって、慶事・弔辞を体験しましたから、礼服を用意していました。でも当然こんなに多種ではありません。礼服は普通、黒のダブルで、オールラウンドで間に合いました。ネクタイだけ慶事と凶事で違います。結婚式のお仲人を何件か依頼されましたが、これもモーニングでなくて黒ダブルでした。在職晩年になって、思い切ってモーニングを作りましたが、これはその後一度も袖を通すことなく、現在も洋服ダンスに眠っています。もったいない。変わった体験としては、岡山工業高校で始めて卒業生を送り出すとき(昭和58年度、機械科)、式に先立って、校長(和田道夫先生)から、「先生方、卒業式にはせめてネクタイを着用して出席してください」と念を押されて、なぜかカチンときて、「ネクタイをしめないで正装はないか」と考えました。そうだ、「紋付袴」だ!父親が残した一式がありましたが、まさか着付けを母に手伝ってもらって、自宅から和服で出勤できないので、以前、妹の結婚式でお世話になった職場近くの「貸衣装屋兼結婚式場」で一式を借りて、着付けもお願いしました。車で1~2分の近距離です。当時の愛車は「フェアレディZ」でしたから、学校の駐車場で羽織袴姿で草履を履いてフェアレディZから降りる姿は、さぞかっこ良かっただろうと、自分では思っています。体育館の総指揮を担当されていたのは、日ごろ親しくさせていただいている体育の佐藤先生でした。私の姿を見られて、一瞬びっくり仰天されたみたいですが、和装の正装ですからそのまま館内へ誘導してくださいました。そうして式は無事に終了しました。翌日、和田校長に呼ばれて、「大森さん、まいりました。あれにまさる正装はありません」と、お言葉をいただきました。日ごろは地味な(と自認)している私ですが、時にこういうサプライズをやらかします。