論語でジャーナル’25
20,疾(しつ)ありて君これを視(み)たもうときは、東首(とうしゅ)して朝服を加え、紳(しん)を施(ひ)く。
先生がご病気で主君がお見舞いに来られたときには、東枕にして礼服を布団の上から掛け、広帯をその上に横に置いていた。
※浩→孔子が病気で君主からのお見舞いを受けたときには、病身で実際に礼服を身に付けられなくても、布団の上からあたかも礼服を着ているような格好にしていたのです。
やはり「かたち」より「こころ」が大事なのです。「巧言(こうげん)令色(れいしょく)鮮(すく)なし仁」と、「学而篇」「陽貨篇」にありましたが、当時の孔子が「かたち」ばかりになっていた「礼」を戒めて、「こころ」のあり方を重んじたことがここでもよくわかります。口先だけうまく、顔つきだけよくする者には、真の仁者はいない。真の人格者はむしろ口が重く、愛想がないということ……、というと「老子」の“無為自然”に近い感じがします。口が重く愛想がないのが「仁」だというのではありません。「中庸」が大事です。
『大学』には「思い内にあれば色外に現る」とあります。心の中で汚いことを思うと、自然に言葉も汚くなり、動作が乱れるが、 心の中で清らかなことを思うと、自然に言葉もきれいになり、動作も無駄のない動きとなる ということでしょうか。発展して、恋をしているときには、恋人を思う気持ちが強ければ強いほど、 その思いが顔の表情に現れてくるでしょう。歌舞伎舞踊の「身替座禅」にこのフレーズがセリフとして使われています。
大名・山蔭右京は、愛妾・花子の許に行きたいが奥方(通称“やまのかみ”)の嫉妬が怖い。そこで座禅と称して一室に閉じこもり、家来の太郎冠者を身替りにして出かけます。途中で差し入れなど絶対にしないようにと言いつけましたが、奥方は我慢できなくて、お茶を差し入れて、太郎冠者が身替わりになっていることを知ります。「おのれ、正直に言えば一夜くらいは出してやらぬものでもないのに」と、騙したことに立腹します。そこで、太郎冠者の代りにカツギを被って右京の帰りを待ちます。右京はほろ酔い機嫌で帰ってきます。そのときのセリフに、「思い内にあれば色(いろ)外に現ると申いてな……」とあります。奥方がカツギを被っているとも知らずさんざん花子ののろけ話をしますが、太郎冠者と思い込んで、カツギをめくると、「冠者にはあらでスックと立ち……」と鬼女の面体で奥方が現れ、右京を追い回します。「ゆるさせたまえ、ゆるさせたまえ」「やるものか、やるものか」と、お馴染みの追っかけシーンで幕となります。六代目尾上菊五郎の残した新しい狂言舞踊で、十七世中村勘三郎さんのが好評で、その息子十八世勘三郎さんも、三代目市川猿之助さんも、関西の片岡仁左衛門さんも演じてきました。もちろんお家元の当代尾上菊五郎さんもたびたび演じています。逆に、賭け事では「ポーカーフェイス」と言うように、こころを見せないようにしないと勝てません。小心者は良い札が回ってくるとすぐ表情に表れて、負けてしまいます。子育てでは、親の子どもに対する態度とこころがずれていると、これを「ダブルバインド・メッセージ」(←ベイトソン。野田先生は、「抱っこパンチ」)と言いますが、子どもはどちらを信じていいか混乱してしまいます。これがひどいと精神的に病むことがありますから、くれぐれも要注意です。