論語でジャーナル’25
21,君、命じて召せば、駕(が)を俟(ま)たずして行く。
君主から招聘の命令を受ければ、馬車に馬をつける時間も待たずにすぐに歩きだされた。
※浩→「駕」は動詞で、馬車を引く馬を装備することです。君主から自宅に呼び出しがあると、これはすべてに優先する『至上の命令』ですから、馬車の用意ができないうちに外へ出て歩きだしました。そうしている間に用意を調えた馬車があとから追いついたそうです。今日では、世の中に利己主義が蔓延して、職場の上司や管理職から厳しい指示・命令があると、「パワハラだ」と騒いだりします。もちろん、上司による理不尽・不合理な指示・命令はいけないですが、組織の一員として当然果たすべき役割・責任まで、「パワハラだ」と騒いで逃れようとしては、組織は機能しません。上司のものの言い方にも問題があるかもしれません。日本の学校にはまだ「コミュニケーション」という科目はないです。「知育」「体育」「徳育」のうちの「徳育」に属するとすれば、「道徳教育」でしょうが、昭和の敗戦を境に、道徳教育というと、戦争肯定に直結すると考えらるのか、否定的にとらえるむきもあります。欧米では、道徳の根底を宗教がしっかり支えているのでしょうが、日本では、宗教を公教育に反映させることはタブーですから、このあたりがじれったいです。國分康孝先生は、いつも、To be cure is to be religious.とおっしゃっていました。野田先生はspiritualとreligiousを区別されます。spiritualは困難でも実践できそうです。ニーチェは「神は死んだ」と、ツアラトゥストラに語らせています。アドラー心理学の「共同体感覚」はspiritualな概念です。さきごろ岸見先生の『嫌われる勇気』が爆売れしましたが、純正アドラー心理学はそんなには売れないようです。野田先生によれば、「基本前提第一の“個人の主体性”で、すべては自分の創造物で、自分の責任だと言うから広まらない」と。世間の常識は、「自分のせいではない」と言いたくて、自己責任は嫌われます。しかも、基本前提第三に昔「対人関係論」(今は「社会統合論」)というのがあって、個人の存在の前にまず「社会(共同体)」が存在して、個人個人はそこに組み込まれているから、社会に貢献することで所属が良くなり、幸福に生きることができると考えます。世間に蔓延する「自己中心主義」ではほんとはみんなが不幸になるだけです。真に幸福な社会を実現するには、アドラー心理学という「代替案」があることが世の中にもっともっと知られるといいと願います。でも難しい。