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スレッドNo.177

論語でジャーナル’25

22,大廟(たいびょう)に入り、事ごとに問う。

 役人時代の先生が、魯の先祖の霊廟を参拝されたとき、お参りの方法を一つずつ(専門の役人に)質問された。

※浩→孔子は、宗廟の参拝や祭祀の礼制について誰よりも詳しく精通していたはずですが、『正しい礼の道』へのこだわりが強く、必ずそこの担当の係に謙虚に質問をしていたということです。最高レベルの賢者である孔子がこうだったのに、われわれは少し物知りになると、すぐに「知ったかぶり」をしたがります。特に私などは、“見栄の大森”と自称するくらいでしたから耳が痛いです。それでもアドラー心理学に出会ってからは、多少は謙虚になったかと自分では思います。子どものころ、よく母親が「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」とか「倒されし竹は静かに起き上がり倒せし雪は跡形もなし」と言っていたのを思い出します。あまり親の期待どおりになっていません。
 在職中に一時(3年間)「進路指導課」にいました。就職と進学の一部を担っていました。当時の課長は建築課の浮田達郎先生(故人)、執務のトップは理科の佐藤禎秀(よしひで)先生。この方は、備前高校で私の着任以前にボート部の顧問の1人でもありました。そして、進路指導業務のコンピューター化を推進された電気科の矢田部隆一先生。それから、事務担当の西島葉子さんなど、懐かしい面々が思い浮かびます。そのころ、母が私のお弁当作りをやめました。それで昼食を主に出前でまかなっていましたが、学校のそばに「寿司蔵」というおいしいお寿司屋があったので、たびたび「上ちらし」(1000円)を頼みました。当時の先生方の標準のお弁当は、350円くらいが相場でした。このとき“見栄の大森”が誕生しました。すると、佐藤先生は自分のことを“ひがみの佐藤”だとおっしゃり、矢田部先生は“あきらめの矢田部”だとおっしゃいました。今思うと、“あきらめの矢田部”が最高に素晴らしいです。枯れていてまさに「人生の達人」です。
 それはそれとして、アドラー心理学のことやカウンセリングの技法については、野田先生(私よりも実年齢は6歳年下)に、喰い下がってしつこくしつこく質問しても、先生はイヤなお顔ひとつなさらないで、丁寧に丁寧に教えてくださいました。今日の論語の孔子の態度に酷似しています。自分の今日があるのは野田先生に出会えたおかげです。自分の担当するケースについて、カウンセラー資格修得後の2年間ほどは、毎週金曜日夜の、大阪アドラーギルドの「事例検討会」に持参して、先生をはじめ大勢の先輩方から、丁寧なコメントをいただけました。特に野田先生からはそれこそ手取足取りで教えていただけました。あれは、私が有望視されたからではないかと、当時は思い込んでいましたが、今思うと、私が危なっかしくて放置しておけないので、間違いがないようにあんなに丁寧に教えてくださったのかもしれません。どちらにしても、そのおかげでこんにちの自分がいます。野田先生が逝かれてまる5年です。毎日のように野田先生が残された資料に接し、音声録音の資料を耳にしていて、私の近くにいつも先生はいてくださるようです。

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