論語でジャーナル’26
27,色斯(おどろ)きて挙(あ)がり、翔(かけ)りて而(しか)して後(のち)集(とど)まる。曰く、山梁(さんりょう)の雌雉(しち)、時なるかな時なるかなと。子路これに共(むか)えば、三たび臭(はねひろ)げて作(た)つ。
雉(きじ)が人間の気配に驚いて突然飛び上がる、ぐるぐると飛び回ってから木に止まった。先生がおっしゃった。「山中の橋にいる雌の雉は、時機を心得ているな、時機を心得ているな」と。子路が雉に近づいていくと、三度羽ばたきしてから飛び立っていった。
※浩→ここは大変難解な個所で、解釈は諸説あるようです。『論語』(前篇)の結びがこのような難文で終わっている理由を現代のわれわれは知るすべもありません。
人間が接近すれば飛び去って逃げ、木に止まって安心できれば動かない。雌の雉の俊敏な動作を観察した孔子が、「臨機応変な身の処し方」に感嘆した場面なのでしょう。「あの雉は、時宜というものを知っている」と感慨深く雉を見ていた孔子ですが、そんな孔子の内面も知らずに、ずかずかと豪胆な子路が近づいていったために雉は飛んで逃げてしまいました。子路は無粋な人のようです。せっかく孔子が「時機を心得ている雉に感歎しているのに、無神経に近寄ったために、三羽の雉は飛び立ってしまったのですから。これも一説です。
「時なるかな」という孔子の言葉を勘違いした子路は、「雉を時節の食べ物だ」と誤解して、捕まえてころして煮て孔子に差し出したという説もあります。「共」を「供」と、「臭」を「嗅」と読み替えます。孔子は、もとより食べる気はありませんが、子路の好意を無にもできなくて、皿の雉を三度嗅ぐと、そのまま立ち去った、というのでが、これでは子路の無神経さが際立ちすぎです。
じっくり読み返してみますと、山中の丸木橋にいる雌の雉は時節をよく知っている。時間の流れの上に起こる環境の変化に応じてうまく自分の身を処している。つまり鳥はうまく歴史の変化に応じうるのに、人間はそうではない。時機に敏感でありたいということ。雉に関しては「雉も鳴かずば撃たれまい」が有名です。地元・岡山のサッカーチーム「ファジアーノ岡山」のファジアーノは岡山の県鳥=雉にちなんでつけられています。
アドラー心理学ふうに言うと、ライフスタイルが子ども時代に形成されますが、はじめは「未分化」だったものが成長につれて「場合分け」ができるようになります。「時空」に関して場合分けができるようになると、頑固でない柔軟な環境に応じた対応ができます。子どもは観察眼は鋭いが解釈は下手だと言われます。よく見、よく聞き、よく触れるのですが、次第に場合分けできるようになって、大人になります。大人でも頑固な人は、このことが未熟なのでしょう。「あつものに懲りて膾を吹く」と言われます。『学而篇』には、「君子は重からざれば則ち威あらず。学べば則ち固(かたくな)ならず……」とありました。(「郷党篇」完)