論語でジャーナル’26
第十一 先進篇
1,子曰く、先進の礼楽(れいがく)におけるや野人なり、後進の礼楽におけるや君子なり。如(も)しこれを用いば、則ち吾は先進に従わん。
先生がおっしゃった。「弟子たちの中の先輩は、礼制と音楽に対して野人(郊外に居住する農民)のようである。後輩は、礼制と音楽に対して立派な君子のようである。しかし、もしどちらかを選択せよとなれば、私は先輩たち態度に同調するだろう」。
※浩→先輩格の弟子は、子路・子貢・顔淵・閔子騫(びんしけん)・宰我などで、後輩格の弟子は、子游・子夏・曾子・子張・澹台滅明(たんだいめつめい)などです。孔子は、先輩格が得意とする「政治的実践」と後輩格が熱中する「礼楽的研究」において、実際に信念を持って素早く行動する政治的実践のほうを重視したのです。机上の学問も必要ですが、教養主義に傾斜し過ぎると実行力や決断力にかげりが出てきて、有意義な行動ができなくなってしまいます。
別の解釈として、晩年の孔子が、儒学教団を起こした初期に自分に師事してくれた先輩格の弟子たちを好意的に懐古したという考え方もあるようです。
野卑でなく文化的な生活こそが人間の価値であって、その実践への可能性が増大することを祝福しつつも、それによって良い意味での野生が失われることをおもんばかり、それはやはり先輩たちの場合のように保存されねばならない、と吉川幸次郎先生は解説されます。
「巧言令色鮮(すく)なし仁」というのがありました。「野人」は、最も穏やかな解釈としては「田舎の人」でしょう。政府にいる紳士を「君主」とするのに対して、農業労働に復する人が「野人」(農民)です。そういえば、「与党」に対して「野党」と言い、政権を失うことを「野(や)に下る」と言います。「文化」と対(つい)になるのは「野卑」ですが、「野生」というのも良い意味とあまり良くない意味に使われます。「野性的」は“軽蔑”にも“賞賛”にも使われます。
昔(1978年でしたか)に上映された『野生の証明』という映画がありました。角川映画でした。高倉健さん主演で、薬師丸ひろ子さんがまだあどけない少女役で出演していました。洋画では『野生のエルザ』というのがありました。これはライオンが主役です。
ジョーイはケニヤの北高原の監視官の妻で、ある日3頭の牝ライオンの子を拾い、育てることにした。その中で一番小さいエルザを特に可愛がった。地方行政官の忠告のように、大きくなったときの野生の恐ろしさを思わないでもなかったが、夫が病気のときは枕元で一晩中見張りをすることもあった。ある夜、象の大群が集まったとき、エルザは一目散に逃げ出し、作物をひどく荒らした。行政官もこれが最後だと言った。大きくなりすぎ、野生も表れてきた。ジョーイは考えた末、エルザを自由にしてやることに決めた。だが雄ライオンの傍に置いてみると、慌てて車のほうに飛んで帰って来た。他の動物をころすことを教えようとすると、カモシカと遊ぶような始末で、1週間野に放してみたが、結局餓死寸前のところを発見された。繁殖期に入ったある日、エルザを遠くへ運んだ。雄を争い牝ライオンと激しい取っ組み合いをやりエルザが勝った。本当の野生に帰ったのだ。ジョーイは嬉しいと同時に、もうエルザには会えないのでは、と淋しかった。1年が経って、エルザを残したところへ来てみたが、1週間過ぎてもエルザは現れなかった。帰ろうとしたとき、遥か彼方からエルザがやって来た。3頭の子を従えて。子どもまで連れてくるとは。エルザはジョーイの側に人間が抱擁するような形で足を置くと、懐しそうに体をこすりつけたり、手をなめたりしていた。エルザの子どもたちもまわりに集まった。近くでライオンの吼える声が聞えた。エルザの旦那だろう。短いめぐり合いだが、エルザもこれからは本来の野生に戻るだろう。
この映画のテーマ曲も有名で、大ヒットしました。マット・モンローという人が歌っていたはずです。“Born free ……”と。