論語でジャーナル’26
4,子曰く、回や我を助くる者にあらず、吾が言において説(よろこ)ばざるところなし。
☆古注
先生が言われた。「顔回は私の協力者ではない。私の言葉に対し、何を言っても、彼が理解しないものはない」。
★新注
先生が言われた。「顔回(顔淵)は、私の学問を助ける者ではない。私の言う言葉を(批判的に吟味せずに)喜んで聞いているだけだから」。
※浩→新旧で解釈が逆です。「説」を、古注は「解く(理解する)」と読み、新注は「悦」(喜ぶ)と読んでいるからです。吉川幸次郎先生は古注の立場、貝塚茂樹先生は新注の立場です。私は、どちらかと言えば、貝塚先生のほうが好きです。顔回は孔子最愛のお弟子さんで、随所で褒めちぎられていますが、アドラー心理学的には、人間は不完全な生き物だと考えますから、やはりいくらか欠点のあるほうが現実的で人間的だと思います。顔淵は孔子の理想とする境地と同じ境地に立っていたので、孔子の主張や思想に対して批判的な解釈をすることがなかった。そのため、孔子と顔淵が議論しても「弁証法的な発展(定立・反定立・統合)」をすることができず、そのことを孔子は学問的な立場から物足りなく感じてしまったのでしょう、という解釈があります。弁証法的な発展という表現がまた刺激的です。ソクラテスは若者たちとの「対話」を通して「真理」を醸し出していきました。あらかじめ「これが真理」と決まっているのではなく、「ああだ、こうだ」と意見を出し合い、批判し合い、また新たな意見を出し、これをを繰り返していくうちに、「正→反→合」というプロセスで「真理」が導き出されるということです。これはアドラー心理学の「価値相対主義」の立場とも通じそうです。野田先生は、プロには厳しかったですが、初心者や努力家にはとてもやさしかったです。孔子は最愛の弟子・顔回をこの場面では珍しく叱咤激励しているのかもしれません。