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スレッドNo.189

論語でジャーナル’26

7,季康子(きこうし)問う、弟子(ていし)孰(たれ)か学を好むと為す。孔子対(こた)えて曰く、顔回という者あり。学を好みしが、不幸、短命にして死せり、今や則ち亡(な)し。

 季康子が質問をされた。「弟子の中で誰が一番、学問が好きであろうか?」。孔子はお答えになった。「顔回という人物がいました。学問を非常に好んでいましたが、不幸なことに短命で死んでしまいました。ですから、今ではもう彼のような学問好きはいません」。

※浩→孔子が最も愛して目をかけていた顔回は、弟子たちの中でも「学問第一」として知られていましたが、孔子の願いも虚しくあっという間に夭折してしまいました。
 このあとしばらく、顔淵の死を悼む追悼文が続きます。


8,顔淵死す。顔路(がんろ)、子(し)の車を以てこれが椁(かく)を為(つく)らんと請う。子曰く、才あるも才あらざるも、また各(おの)おのその子を言うなり。鯉(り)や死す。棺ありて椁なし。吾(われ)徒行(とこう)して以てこれが椁を為(つく)らず。吾大夫(たいふ)の後(のち)に従うを以て、徒行すべからざるなり。

 顔淵が死んだ。父の顔路が、孔先生の車を使って外側の棺桶(立派で高価な棺)を作りたいとお願いした。先生が言われた。「才能のある者とない者との差があっても、自分の子のためという思いは同じである。私の子の鯉(り)が死んだときにも、外側の棺桶(椁)は作らなかった。自分の車を壊して徒歩で歩くことになってまでは、子の棺桶を作らなかったのである。私も(身分の高い)大夫の末端にいる者なので、車を使わずに徒歩で移動するというわけにはいかないのである」。

※浩→顔淵が死んだとき、経済力がなかった顔淵の父・顔路は「孔子の馬車を壊して、息子のための立派な棺桶を作ってくれないだろうか」と懇願しました。しかし、大夫の礼制として馬車に乗って移動することは必須の作法だったので、孔子はその申し出を苦渋の思いで断わりました。


9,顔淵死す。子曰く、噫(ああ)、天、予(われ)を喪(ほろぼ)せり、天、予を喪ぼせり。

 顔淵が死んだ。先生が言われた。「あぁ、天が私を滅ぼされた、天が私を滅ぼされた」。

※浩→最も深い愛情と期待を寄せていた弟子の顔回が突然の死に襲われたことで、孔子は持って行き場のない強い悲嘆と後悔の思いを「無情な天」にぶつけました。孔子の顔回を失ったことのショックの大きさを偲ばせます。


10,顔淵死す。子、哭(こく)して慟(どう)す。従者曰く、子、慟せりと。子曰く、慟することありしか、夫(か)の人の為に慟するに非ずして誰が為にか慟せん。

 顔淵が死んだ。先生は霊前において大声を上げて泣いて深い悲しみを表現された。従者が申しあげた。「先生は先ほど、泣き崩れられましたね」。先生はおっしゃった。「泣き崩れる場面があるとして、あの人のために大声で泣かずに、いったい誰のために大声で泣くということがあるだろうか(そんな相手は他にいない)」。

※浩→古代の服喪儀礼の一つとして、親愛なる死者のために捧げる「慟哭」がありましたが、孔子はその喪の儀礼を逸脱するほどの大声を上げて泣き崩れたので、(いつにもない取り乱しようを見た)従者がその悲哀の気持ちの強さに驚きました。


11,顔淵死す。門人厚く葬らんと欲す。子曰く、不可なり。門人厚く葬る。子曰く、回は予(われ)を視(み)ること猶(なお)父のごとくなり。予は視ること猶子のごとくするを得ざるなり。我には非ざるなり。夫(か)の二三子(にさんし)なり。

 顔淵が死んだ。門人たちが身分を越えた手厚い葬儀をしたいと申しあげた。先生が言われた。「それはよくない」。しかし、門人たちは顔淵を儀礼を越えて盛大に葬った。先生が言われた。「顔淵が私に接する姿はまるで父に対するもののようであった。しかし、私は顔淵に対して我が子のように慎ましやかに温かく葬ってあげられなかった。これは私の責任ではない。門人たちが勝手にしてしまったことなのだ」。

※浩→孔子は最愛の弟子である顔淵の死に臨んで、礼制にのっとった分相応の葬式を執り行おうとしましたが、孔子の悲哀の気持ちを恣意的に忖度した門人たちが、顔淵の葬儀を盛大に行い過ぎてしまいました。生前、顔回と孔子との間には、虚礼も遠慮もなく、実の親子のような精神の触れ合いがありました。それなのに、門人たちは、静止したにもかかわらず過分な葬礼をしました。孔子の憤りはいかばかりであったことでしょう。

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