MENU
15,044

スレッドNo.190

論語でジャーナル’26

12,季路(きろ)、鬼神に事(つか)えんことを問う。子曰く、未だ人に事うる能(あた)わず、焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼に事えんか。曰く、敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。

 季路すなわち子路(実名は仲由)が、死者の霊魂へのお仕えの仕方を聞いた。先生がお答えになった。「生きている人間に仕えることが十分でないのに、どうして死者の霊魂などにお仕えすることができるだろうか?いや、できない」。子路はさらに、死について質問した。先生は言われた。「まだ生について十分なことを知らないのに、どうして死について知ることができるだろうか?」。

※浩→子路は果敢な弟子で、行動ばかりか思考も果敢でした。「鬼神」の「鬼」は厳密には、人間が死んで霊になったもので、「神」は天の神です。ここでは漠然と「神々」のことを言っているのでしょう。孔子は人智を超越した「天」が徳の高い「人」に天下統治の命令を下すという天命思想を信じていましたが、(形而上学的な)目に見えない怪・力・乱・神について大袈裟に語ることを好みませんでした。「死後の世界」について想像だけで適当に解説することを拒否していたのでしょう。現実主義者であり現世の生活や政治を優先する孔子は、人間では手の打ちようのない死後の世界の問題や死者の霊魂へのお勤めを心配する時間があるのであれば、「今・ここ」にある自分の課題に集中せよと言いたかったのではないでしょうか。「今・ここ」というと、「瞑想」と関係がありそうです。『論理哲学論』のウイットゲンシュタインは、「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない」と、著書の最後に述べています。野田先生もたびたびこのフレーズを引用されました。先生は、これをさらに発展的に解釈されて、「ということは語りうることについては、きちんと語らないといけない」とおっしゃいました。人間関係の多くのトラブルが、このことと関係があるかもしれません。きちんと伝えていれば誤解が避けられ、トラブルはなかっただろうということです。こちらはきちんと伝えたつもりでも、相手に伝わっていないことがしばしばあります。こういう意味でも、「相手の関心に関心を持つ」とか、「問題の共有」とかいうことの大切さがよくわかります。よく「刑事ドラマ」などで、人を殺したあと、その理由が自分の誤解であることを知るという話があります。「取り返しのつかないことをしないように」充分配慮して生きたいものです。「安全運転」や「火の用心」もこのことに通じます。極端に臆病になってもいけませんが。

編集・削除(未編集)

ロケットBBS

Page Top