論語でジャーナル’26
19,子曰く、回はそれ庶(ちか)きか、屡(しばしば)空(むな)し。賜(し)は命(めい)を受けずして貨殖(かしょく)す。億(おく)すれば則ち屡(しばしば)中(あ)たる。
先生が言われた。「顔淵の徳性と学問は完全に近いだろう、しかし、彼は常に貧乏であった。子貢は主君の命令を受けずに商売を営んだ。子貢が儲かると推測したときにはいつも的中した」。
※浩→顔淵は、門弟の中で最も学問に秀で、徳性にも優れていて完全に近い。しかし、いつも経済的に貧窮していて無一物でした。これに次ぐ秀才の子貢は、殿様から命令を受けないで勝手に商売をして大利を得ていました。彼は商売の才覚があって、このビジネスをすれば儲けられるという読みが外れたことがありませんでした。顔淵に対する憐憫の情が溢れています。私も学生時代は貧乏でした。両親の教育方針が異なっていて、父親は私を倉敷工業高校の電気科へ行かせて手に技術を得させようと考えていたのに対して、母親は家に財産がないので、安定した職業として公務員、それも教師を望んでいました。そのためには大学進学の必要があったので、母は私を連れて家を出て、兄が開業医をしている実家へ帰ったり、従姉(いとこ=久保田のおばちゃん)のアパートに同居して、彼女とともに、和服の仕立てをして学費をまかなってくれました。足りない分を、私は家庭教師のアルバイトを多いときは4~5件掛け持ちして埋めました。そういう状況で、ボート部に入ったものですから、合宿費や遠征費用を捻出するのは至難の業でした。しかも大食いをするので合宿費はバカにならない金額でした。納入を延滞し続けていると、1年先輩の藤原潔先輩が、立て替えてくださったり、冬の防寒コートを私が持っていないと、立派なオーバーコートを貸してくださったり、それはそれは大事にしてくださいました。クルーのメンバーたちはそれぞれ良家のご子息たちでリッチでした。授業が終わると直ちに合宿所へ移動して、水上練習にかかれるのですが、私は途中で家庭教師を二軒ほどすませてから遅れて駆けつけると、いつも、艇庫前の階段で、水野久隆氏、三宅一雄氏、ドロンこと今村穣氏とコックスの真谷くんが待っていました。全員イヤな顔ひとつしないで、「さ、いこう!」とかけ声をかけて、愛艇のシェルフォアは岸を離れました。このクルーが昭和37年に全日本選手権で準優勝し、同年の関西選手権で優勝しました。藤原先輩には当時の額で4000円ほどの借金が残りましたがいまだに返済していません。すでに時効です(笑)。