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スレッドNo.201

論語でジャーナル’26

23,子、匡(きょう)に畏(おそ)わる。顔淵後(おく)る。子曰く、吾汝を以て死せりと為せり。曰く、子在(いま)す、回何ぞ敢えて死せん。

 先生が、匡の地で賊に襲撃されたときに、顔淵が集団からはぐれて遅れてしまった。後で顔淵と再会したときに、先生がおっしゃった。「私はお前が死んでしまったものと思っていた」。顔淵が言った。「先生が生きていらっしゃる限り、私がどうして死ぬことなどあるでしょうか」。

※浩→孔子の一行が、衛の国から陳の国に赴く途中、悪人・陽虎だと人違いされた孔子が暴徒の襲撃を受けて四散してしまいます。最愛の弟子・顔淵は一行から遅れていてその場に居合わせませんでした。やがて顔淵がやって来たとき、孔子は「おお、生きていたか。よかった」と喜びます。顔淵は、「先生が生きていらっしゃるのに、私が死ぬわけにはまいりません」と答えます。ここには宗教的な感情が流れていると、吉川幸次郎先生は解説されます。「子在す」という顔淵の最初の言葉は、無事な先生の姿を確認しての言葉であるとともに、いかなる危機の中にあっても、先生が命を失われることはないという確信の予想を言っているように響きます。顔淵の確信は何によって生まれているでしょうか。慎重な孔子はいかなる危機の中でも慎重に対処するであろうという予想、それがあったとともに、天の加護は常に先生の上にある、つまり「子罕篇」の孔子の言葉「天の未だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人其れ予れを如何」と、そうした孔子の自信が、先生の身の上についての顔淵の信念でもあったと響きます。孔子の自信と、その自信に応える天の恩寵、さらには天の恩寵を意識することによって増大した自信、それらがみな顔回の上にも波及しているとも考えられます。このときは、顔回は死ななかったです。でも何年かのち、顔回は孔子に先立って死にます。そのときは、「顔回死す。子曰く、噫(ああ)。天、与(わ)れを喪(ほろ)ぼせり、天、与れを喪ぼせり」と悲嘆に暮れています。
 貝塚先生は、再会できた師弟の情宜を超えた同性愛に近いものを感じると書かれています。確かに孔子のたくさんのお弟子の中で、顔回には特別の情を抱いていたように感じられます。「愛弟子」レベル以上のものを。それほどの魅力を顔回は備えていたのでしょう。
 そすそう。「師弟関係」というと、かつて野田先生が書かれた小論文があります。引用します。↓
 育児あるいは教育をめぐる人間関係には2つの種類があります。1つは、先生teacherと生徒studentとの関係、もう1つは師匠masterと弟子discipleとの関係です。先生-生徒関係は、主に知識の伝達を目的とするもので、必ずしも人格的な触れ合いを前提としません。一方、師匠-弟子関係は、人格的な成長を目的とするもので、知識の伝達は副次的なものです。アドラー的な用語を使うと、先生-生徒関係は社会(ゲゼルシャフト)的、師匠-弟子関係は共同体(ゲマインシャフト)的な関係と言えましょう。両者を比較すると、表のようになります。

先生-生徒関係:師匠-弟子関係
知識伝達が目的:人格的成長が目的
先生のことばを生徒がおぼえる:師匠の行動を弟子が見習う
社会的関係:共同体的関係
契約関係:信頼関係
普通は一時的関係:普通終生の関係
教える-習う:共に学び共に生きる
賞罰による訓練:勇気づけによる育成
仕事のタスク:交友ないし愛のタスク

 さて、躾けdisciplineという言葉は弟子descipleという言葉と関係があります。つまり、躾けとは「師匠と弟子の道」なのです。従って、師匠-弟子関係のないところに、本当の躾けはありえません。今、この国で躾けがないのは、親子間であれ師弟間であれ、先生-生徒関係はあっても、師匠-弟子関係がないからです。さらにはその背景である、共同体的人間関係がないからです。
 かつては、尊敬される人が人々に推されて教師になりました。今では、尊敬されたい人が教師になって、人々に尊敬を強要しています。尊敬されたいために教師という職業を選択することそれ自体が悪いことだとは言いません。どんな動機であれ、共同体に有益な職業を選択するのはよいことですから。しかし、一旦教育者という職業を選択したかぎりは、いつまでも幼児的な『権力への意志』を追求しつづけるべきではありません。教師には、みずからが人格的に成長して大人としてふるまうことで、生徒たちに大人の問題解決行動のモデルを示す責任があると思います。「教師は労働者か聖職か」というような幼児的な議論ではなく、教育を可能ならしめる基礎としての、教師自身の人格的成長、すなわち共同体感覚の育成が、教育界の目下の急務ではないでしょうか。
 教師だけではありません。およそ人の子の親たるものは、すべからくわが子の師であるべきです。もっと正確に言うと、好むと好まざるにかかわらず、わが子の師である他はないのです。悪い師匠の弟子になるのは一生の不幸です。親たちの多くは、師匠としての資格がないままに弟子をとっています。すなわち、ほとんどの親は精神的には、まだ子どもなのに子を産んで育てているのです。子どもが子どもを育てていたのでは、大人が育ってこないのは当たり前です。親がまず大人にならなければ、子どもはいつまでも大人にはなれません。
 心構え論としては以上に尽きますが、では実際にはどうすればいいのでしょうか。現在すでにある社会資源を利用するとすれば、スマイル(『パセージ』旧バージョン)や親業などは使えます。これらのコースは、躾けの技法を身につけさせることを目的として作られたもので、私が今ここで言っている、先生から師匠への成長、あるいは、共同体的な教育理念そのものを身につけさせようとするものではありません。しかし、これらのコースによって躾けの技法を学ぶことは、先生-生徒関係を脱却して師匠-弟子関係に入ってゆくための1つのとっかかりになりえます。因習的な躾け法にかわる、より共同体的な躾け法を身につけることで、共同体的なものの見方も育ってゆく可能性があります。
 行動が変わればやがてライフスタイル(世間で言う性格のこと)も変わるものですから、それらのコースで躾けについての行動がまず変われば、躾けをめぐるライフスタイルも変わることがありえます。それらを小手先の技巧を教えるだけのものだと馬鹿にすることは当たっていません。はっきりと意識して使われれば、それらは受講者の行動だけでなくライフスタイルをも変えうるのです。
 しかし、現状を見ますと、それらのコースの受講は、必要なことではあっても、それだけでは十分ではないように思います。育児・教育についてのちゃんとした考え方なしにただ技法だけ身につけてしまう例がまま見受けられます。これでは本当の躾けはできません。スマイルであれ親業であれ、誤用・悪用しようとすればいくらでもできるのです。親や教師が子どもたちを支配し服従させるための道具としてそれらの知識を使う危険もないではありませんし、不幸にして、実際にそのような例を見聞きしたこともあります。技法の裏づけのない心構え論は、無力ではありますが、少なくとも害はありません。一方、正しいものの見方に裏づけられていない技法は、それはそれとして有効であるだけに、危険でもあり、多くの場合、実際に有害ですらあります。スマイルや親業で身につけた技法は、正しいものの見方に裏づけられてはじめて本当の躾けとして生かされうるのではないかと思います。
 躾けの技法はあくまで、共同体的人間関係にもとづく本当の師弟関係、親子関係への道であること、道でしかないことをいつも忘れてはならないと思います。目標がはっきりと意識され、そこに至る道筋をはっきりと知っているとき、人間は、間違わずに生きてゆけます。躾けの目標はいつでも、みんなともにに大人になることにあるのです。子どもたちを大人にしようと思うならば、まず大人たちが本当の大人になるしかありません。

編集・削除(編集済: 2026年01月23日 06:10)

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