論語でジャーナル’26
第十二「顔淵篇」
1,顔淵、仁を問う。子曰く、己に克(か)ちて礼に復(かえ)るを仁と為す。一日(いちじつ)己に克ちて礼に復れば天下仁に帰す。仁を為すは己に由(よ)る、而うして人に由らんや。顔淵曰く、請う、その目(もく)を問わん。子曰く、礼に非ざれば視ること勿(なか)れ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。顔淵曰く、回、不敏と雖(いえど)も、請う、斯(こ)の語を事とせん。
顔淵が仁についておたずねした。先生は答えて言われた。「自分の私利私欲を克服して、人間生活の法則である礼に復帰することが仁の道である。一日でも私利私欲を克服して礼の法則に立ち返ることができれば、天下の人民はその仁徳に帰服するだろう。仁の実践は自己の努力に由来する主体的な道徳で、他人の強制によるものではない」。顔淵がさらに質問をした。「どうか、仁徳の具体的な実践項目について教えてください」。先生はお答えになった。「礼の法則に外れたものに目を向けてはいけない、礼の法則に外れたものに耳を傾けてはいけない、礼の法則にはずれた発言をしてはいけない、礼の法則に外れた行動をしてはいけない」。顔淵が申し上げた。「私は至らぬ者ではありますが、先生の言葉を実践させていただきたいと思っています」。
※浩→「克己復礼」はあまりにも有名なフレーズです。「仁」は主体的な、積極的な道徳ではありますが、ただ「一日」の実践で天下が感動するというのは、いささかオーバーですし、さらに、問いかけが抽象的で、答えも教条的で、こういう形式は「前篇」にはほとんど見られなかったと、吉川幸次郎先生は述べられています。
さらに先生の解説によれば、「礼に復る」の「礼」は、慾望を圧迫し縮小するための法則ではなくて、慾望を黄金律的な形へ拡大する法則である、とも解説されています。
「克」の原義は「敵と戦争して勝利する」ということですから、「己を責める」と訳すこともあるそうです。欲望とは限らないで、むしろ「自我」のことで、小さい自我を乗り越えるとも解釈されます。インドのアートマンとブラフマンを思わせます。アドラー心理学では、「私利私欲」と対をなすのは「共同体感覚」です。価値観で言えば、「私的感覚」と「共通感覚」ですが、「欲望」そのものを否定してはいません。「欲望」を、「ボディ」と「マインド」とに区別しています。「ボディ」はフロイトが言う「イド」で、「マインド」は「エゴ」と言い換えればわかりやすいです。「ボディ」には個性がありません。どの人のボディも、本能的に生存と所属を追求しているだけです。「マインド」は、1人1人違っています。その違いがライフスタイルだそうです。「ボディ」は動物的なものですから、悩むことはしません。欲求不満は持つでしょうが、それは「今ここで」のことであるにすぎず、くよくよ悩む材料にはならないのです。悩みはすべて「マインド」が作り出すトリックです。マインドは、自分をごまかし他人をごまかすために悩みを作り出します。悩みによって、ボディの欲と社会の要求との折り合いをつけようとするのです。その悩み方がひどくなって、現実には達成できていないのに、幻想的にできているような気になっている状態を「自己欺瞞」と言い、「神経症」と言い、「マインド・トリップ」と言います。
「みんなの仲間でいたい」というのはボディの仕事です。しかし、「仲間がいなくなる」、「友だちが離れる」ということに“異常なくらい”恐怖心を持っているのはマインドです。そうして奇妙な神経症症状を出して、幻想の中でだけ目標追求しています。
マインドが悩んでいるときの解決法は2つあります。「俗」アドラー心理学では、より巧妙なマインドを作り出そうとします。「聖」アドラー心理学では、マインドを捨てて大きなものに「お任せ」するように勧めます。どちらを採ってもかまいません。「より巧妙なマインド」は、より問題を深くする気がするのです。だから、マインドを捨てて、しかもボディだけの動物レベルに還るのではなくて、ハートの目覚めた新しいレベルに進むように、人々に勧めています。……と、野田先生が『補正項』に書かれていました。こここで言われている「ハート」が「共同体感覚」か孔子の「仁」に近いような気がしています。先生は、《マインド》によってではなくて《ハート》によって問題を見ると、まったく違って見えてくる。そのことをいちいちの事例について示したいのだ。そうすることで、クライエントにとってよい解決ではなくて、クライエントを含むシステムにとってよい解決を見つけたい。とも書かれていました。