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スレッドNo.206

論語でジャーナル’26

2,仲弓(ちゅうきゅう)、仁を問う。子曰く、門を出でては大賓(たいひん)を見るが如くし、民を使うには大祭に承(つこ)うるが如くす。己の欲せざるところ人に施す勿れ。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し。仲弓曰く、雍(よう)、不敏と雖も請う、斯(こ)の語を事とせん。

 仲弓が仁徳について質問をした。先生はお答えになった。「家の門を出て外へ出たならば、あたかも国賓のような大切なお客に会うときのように敬虔に応対する。国民を使役するときには、国の宗廟の大祭を勤めるような心持ちで厳かに行う。自分がしてほしくないことを、他人にしない。そうすれば、国に仕えていても人に恨まれることがなく、家庭にいても人から恨まれることはない」。仲弓は申し上げた。「私は愚鈍な者ではありますが、先生の言葉を実践させていただきたいと存じます」。

※浩→孔子が弟子の仲弓に仁徳の本質について教えていて、有名な「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」が登場しました。キリスト教の黄金則の「自分がしてもらいたいことを、人にしてあげなさい」の裏返しになっているところが興味深いです。アドラー心理学では、どう考えるでしょうか。少し理屈をこねると、「自分が欲しないこと」も「自分がしてもらいたいこと」も、自分の“私的感覚”にもとづきます。ところが、他者には他者の“私的感覚”がありますから、「自分の欲しないこと」でも相手は欲するかもしれませんし、「自分がしてもらいたいこと」も相手はしてもらいたくないかもしれません。欲しないことをしないのは、相手に何も加えられていないですから、安全に思われます。一方、「自分がしてもらいたい」からと思って、もしも断りもなしに実行したら、相手は「余計なお世話」とイヤがるかもしれません。やはり、相手の意向を確認する必要がありそうです。「~させていただこうと思うんですが、いかがでしょうか?」と言いましょうか。「~させていただいてもいいですか?」と言いましょうか。
 話は変わりますが、最近の人々の会話を聞いていると、自分がしようとすることに関して「~していいですか?」と確認するのではなくて、相手に「ちょっと黙ってもらっていいですか?」とか「もう帰ってもらっていいですか?」とか言っているのを耳にして、違和感を覚えます。ついでに、不祥事を起こして、記者会見などで陳謝するときに、「多大なご心配とご迷惑をおかけしまして、心からお詫び申しあげたいなと思います」のように、多くの人が言います。これも不思議な言い方に感じます。1つは、迷惑はかけられたと思う人はいるかもしれませんが、「心配」したかどうか疑問です。「心配」というのはごく主観的なものですから。人によって違います。もう1つは、これでは“お詫び”を“した”ことになっていないと思います。「申しあげたいな(「な」は不要)と思います(思っている)」、で、「意志」と「思考」が述べられていて、お詫びするという「行為」は行われていません。どうして、きっぱりと「お詫び申しあげます」とか「お詫びいたします」と言い切らないのでしょうか。おそらく、言いたくないんでしょう。あとでもしも、「なぜ謝ったのか?」と責められることでもあったら、「謝っていません。お詫びしたいと思います」と「考え」を述べただけですと、言い訳ができそうです。こんなことを考えているのは私だけでしょうか?暇人なんですね。

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