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スレッドNo.208

論語でジャーナル’26

4,司馬牛、君子を問う。子曰く、君子は憂えず懼(おそ)れず。曰く憂えず懼れず、これこれを君子と謂うべきか。子曰く、内に省みて疚(やま)しからざれば、それ何をか憂え何をか懼れん。

 司馬牛が君子について質問した。先生はお答えした。「君子は心配したり、恐れたりしないものだ」。司馬牛はさらにおたずねした。「心配したり恐れたりしない者は、みんな君子と言っていいのでしょうか?」。先生は言われた。「自分自身を内省してやましいところがないのであれば、いったい何を心配して何を恐れるというのだろうか」。

※浩→司馬牛が今度は君子(紳士)の条件について質問しました。ここと一つ前と、司馬牛は二度とも、孔子の言葉に対して、さらに詳しく問い返しています。なるほど「言多し」の人のようです(笑)。兄の司馬魋(たい)が孔子を襲って危難に遭わせたことを絶えず気に病んでいたらしい。それで孔子が、「自分の過失でないものを気にする必要はない」と言って、この無用の心配を除いてやろうとしたのであろう、と、貝塚茂樹先生が解説されています。
 無用の心配というと「杞憂」です。コロナ蔓延の直前でしたが、卒業間近の男子生徒のカウンセリングをしました。生徒会長を務めたリーダーシップのある男子で、パナ○○○○に就職が決まっていました。成績優秀で生徒会長をりましたから、超人気企業に就職したのも納得できます。その彼が、あることについて「それはキユウですね」と言ったので、感動しました。「漢字、書ける?」と聞いたら、笑って「いいえ」と答えました。字は書けなくてもこの言葉を知っていることに感動しました。私がホワイトボードに「杞憂」と書きました。細かいことを言うと、少しだけ「使い方」が違っていました。正しくはおそらく「あとの祭り」と言うほうが、より的確だったと思います。
 周の時代、杞の国の人が、「天が落ちてきたり地が崩れるのではないか」といつも本気で心配しそのために夜も眠れなかった人がいたことから、「杞人憂天」の四字熟語が生まれました。これを略して「杞憂」という言葉になり「起こることのないことに対して余計な心配をすること」といった意味を持つようになりました。
 司馬牛のは、無用な心配ではあっても、杞憂の人とは違うようです。自分の身内の不祥事を負い目に感じていたのでしょう。孔子は質問攻めに困惑気味ではあっても、丁寧に回答されています。
「内に省みて疚(やま)しからざれば、それ何をか憂え何をか懼れん」というフレーズは、『孟子』の中に、曽子が子襄に孔子から聞いた言葉として、「自ら反(かえ)りみて縮(なお)くんば千万人といえどもわれ往(ゆ)かん」と表現されています。こちらはあまりにも有名です。
 野田俊作先生も講演後の質疑応答はいつも丁寧に、たとえ、それまでに他の人が質問したことであっても、イヤな顔ひとつなさらずに、回答されていました。その厖大な記録を筆者は幸い保存していて、現在もいろいろな場面で役立っています。

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