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スレッドNo.21

論語でジャーナル’25

6,子曰く、道に志し、徳に拠(よ)り、芸に游ぶ。

 先生が言われた。「道を目的とし、徳を根拠とし、芸に自適する(自由な気持ちでその中に身を委ねる)」。

※浩→「道」はいろいろに解釈されますが、特に周公を模範とし、周公の作った「礼」の精神を明らかにしようというのが孔子の理想でした。「夫子の道は忠恕のみ」、「あしたに道を聞かば、夕べに死すとも可なり」の「道」は、「人としての正しい道」のことでした。それは「徳」を根本としています。「権力」でなく、人間が良き行動によって積み上げてきた徳の精神的な力がもとであるということです。道徳の中でも、特に人間らしい道徳、つまり人間の社会的な自覚にもとづいた「仁」を実現することが中心とならないといけません。「芸」は、「六芸」つまり「礼」「楽」「射」「御」「書」「数」の6つです。「礼」は礼儀作法、「楽」は音楽、「射」は弓矢、「御」は車の運転、「書」は読書、「数」は計算ですか。これだけ堪能なら万能だと言えます。
 「道」と「徳」が登場しますが、儒家のライバル「道家」の老子による『老子』は『老子道徳経』と言われ、「上編」が「道経」で「下編」が「徳経」です。その『道経』の冒頭には、「道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。名無し、天地の始めには、名あり、万物の母には。ゆえに常に無欲にしてもってその妙を観、常に有欲にしてもってその徼(きょう)を観る。この両者は、同じく出でてその名を異にし、同じくこれを玄と謂う。玄のまた玄、衆妙の門」とあります。意味は、「これが道だと規定しうるような道は、恒常普遍の真の道ではなく、これが真実の言葉だと決めつけうるような言葉は、絶対的な真理の言葉ではない。天地開闢以前に元始として実在する道は、言葉では名づけようがないが、万物生成の母である天地が開闢すると、名というものが成立する。だから人は常に無欲であるとき、名を持たぬ道のかそけき実相を観るが、いつも欲望を持ち続ける限り、あからさまな差別と対立の相を持つ名の世界を観る。この両者は根源的には一つであるが、名の世界では二つに分かれ、いずれも不可思議なものという意味で「玄」と呼ばれる。そして、その不可思議さは玄なるが上にも玄なるものであり、造化の妙用に成る1歳万物は、そこを門として出てくるのである」。
 老子の言う「道」は「万物の根源」です。この考えは「土着思想」だと1992年に野田先生から教わりショックを受けました。イエス・キリストの教えも、釈迦の教えも、彼らが存命中は「創造的思想」だったのが、没して時間が経過するにつれて、土着思想に迎合したり、融合したりして堕落したとおっしゃるのです。
 私は昭和48(1973)年~55(1980)年まで備前高校(現在の備前緑陽高校)に勤務していました。赴任早々の分掌は、交通指導課でした。当時は生徒のオートバイ通学が認められていて、生徒の交通違反の事後指導が主要な業務でもありました。2年目だったかに、学校を出たばかりの超若手の藤原光郎先生が交通指導課の配置になって、まだ30歳台だった私とすぐに仲良しになりました。当時の交通指導課のスタッフは錚々たるメンバーでした。課長はのちに岡山工業高校の校長になられ片山博美先生(博美でも男性です)、スタッフには筋金入りの職人さんタイプの松原一夫先生や大饗良先生、数学のインテリの見村先生もいらっしゃったと記憶しています。違反や事故を起こした生徒の「特別指導」は、広い「第二職員室」に隣接する狭い交通指導課の職員室内で行われました。教師のデスクのそばに机を置いて、教師たちと生活をともにしながら、課題をこなしていました。ベテランの先生たちの指導はなかなかスパルタでしたが、それでも当時の指導は人情味が溢れていました。“浪花節”が通じていました。放課後には、私はボート部員とともにランニングに参加していました。ボート部はこの学校ではメジャーな部で、予算は野球部以上にもらっていましたし、顧問も3人いました。この学校にボート部を創設した功労者のSi先生&私と同じ社会科の小山先生、そして私でした。放課後、交通指導科長がSi先生と囲碁を打っているとき、私が部員と走っているのを見かけると、同じく顧問のSi先生に、「大森さんはああして部員と走っているのに、あんたはこうして碁を打っているのか」とおっしゃってくださいました。親分肌の頼りがいある先生でしたが、のちに岡山工業高に校長としておいでになってからは、私たちとは違う世界の人になられたようです。退職後、数年してお亡くなりになったのがとても残念です。
 ボート部でウエイトトレーニングを始めたところ、藤原先生も部員とともにトレーニングに参加されました。部員は、朝は長距離ランニング、放課後は水上練習で、ウエイトの時間がありません。仕方なく、お昼休みに柔道場をお借りして、器具も柔道部のをお借りして、昼ご飯をそこそこに済ませたら、柔道場へ直行して午後の授業が始まるまでの限られた時間に、ベンチプレスやスクワットをやりました。やがて、窯業科(その後“セラミック科”に)に、これまた学校出たての藤井正勝先生が赴任されました。藤井先生と藤原F先生とはほぼ同年代で、私とよりもずっと仲良しになられましたが、それでもよく3人で行動していました。その藤井先生は、大阪の出身で、学校から徒歩数分の場所に下宿していました。当然、“溜まり場”になりました。藤原&藤井コンビは他の先生たちとよく麻雀をしていたようです。私は麻雀はたしなみませんので、そのときはメンバーから省かれていました。それでも仲良しで、その藤井先生が老子が大好きでした。その影響で、私も『老子』を読み始めました。これが、その後に起こる、私の公私にわたる難局を救ってくれることになります。(つづく)

編集・削除(編集済: 2025年07月25日 06:50)

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