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スレッドNo.215

論語でジャーナル’26

11,斉の景公、政(まつりごと)を孔子に問う。孔子対(こた)えて曰く、君君たり、臣臣たり、父父たり、子(こ)子たり。公曰く、善いかな、信(まこと)に如(も)し君君たらず、臣臣たらず、父父たらず、子子たらずんば、粟(ぞく)ありと雖(いえど)も、吾豈(あに)得て諸(これ)を食らわんや。

 斉の景公が、政治について孔子にお聞きになった。孔子はお答えした。「主君は主君らしく、臣下は臣下らしく、父は父らしく、子は子らしくあれ、ということです」。景公は言われた。「そのとおりであるな。もし本当に主君が主君らしくなく、臣下が臣下らしくなく、父は父らしくなく、子が子らしくないのであれば、米があっても私はそれを食べられなくなるだろう」。

※浩→斉は今の山東省の大部分を領有した東方の大国です。そのころの斉の内政は、矛盾が山積し、危機を醸しつつありました。最大のものは、帰化人の子孫である家老の陳桓が大臣として実権を握っていたことです。やがて、この陳桓の子孫が王位を乗っ取ってしまうそうです。そうした空気の中での問答です。孔子の答えは、君臣父子がそれぞれの持ち分に応じた道徳性を持つことこそ、政治だと答えました。それに対して斉公は「善いかな」と安直に賛成した上、もしそうでなければ、たとえ経済的に豊かであっても、その豊かさを享受することができない、と言っているようです。凡庸な人物は、理想家が理想を説くのを聞いたとき、一知半解に賛成して、低次元の事柄にだけ引き寄せて理解してしまうことが往々にしてあります。この斉公も物質的な私欲にのみ敏感な、凡庸な人物だったようです。フランス革命のとき、王妃マリー・アントワネットが、「人民が食べるパンがありません」と家臣に言われて、「それならお菓子を食べればいい」と答えたというエピソードを思い出します。
 儒学では、社会秩序を維持するために封建主義的な身分制を擁護したとされますが、特に「君臣の義(忠)」と「親子の孝」を最も重要なものと見なしました。道徳観としては、「親子の忠孝」を「君臣の忠義」よりも価値が高いものと考えて、父母と君主が対立したときには父母に仕えることを優先するのが正しいとされたようです。平重盛はこの決断に苦悶しました。ネットから引用します。
 今から約830年前の安元3年(1177年)、「鹿ケ谷の陰謀」と称される事件が京の都で起りました。当時は平清盛が人臣を極めて天下人として世に君臨し、平家一門は“我が世の春”を謳歌していたのですが、平家の専横を苦々しくお感じになった後白河法皇の近臣の藤原成親や僧侶の西光や俊寛(俊寛は歌舞伎でも有名)らが、同年5月、法皇が鹿ケ谷(現在の京都市左京区)にある俊寛の山荘に御幸した際に、法皇の御前にて平家打倒の計画を密かに話し合ったのです。ところが、この計画はとても成功の見込みがないと見切りをつけた多田行綱(多田源氏の嫡流で源頼盛の長男)が、清盛に密告して、首謀者らは直ちに捕らえられ、西光は処刑、他の参加者らは配流されました(藤原成親は備前国に配流後殺害)。これが、「鹿ケ谷の陰謀」「鹿ケ谷の謀議」「鹿ケ谷事件」などと称される、平家に対してのクーデター未遂事件で、計画が実行される前に首謀者らが悉く捕らえられたため結局未遂・失敗に終わったのですが、平家の滅亡はこの事件から始まったとも言われます。
 この事件では、さすがの清盛も後白河法皇に対して処分を科すことは最終的に思い留まったのですが、しかしそれは、長男の平重盛に強く説得されたためであり、謀議が発覚した時点では、怒りが収まらない清盛は法皇を逮捕して幽閉する心算で、実際、北面の武士たちと一戦を交えるため自らも鎧を着て出陣体勢を整えていました。そして、法皇を捕らえるため今まさに出陣をするという、緊迫したその場(清盛の屋敷)に、重盛が武装もせずに平時の服装で現れたのです。重盛は、文武両道に秀で、それでいて温厚・実直で思慮深い性格で多くの人達から厚い信望を集めていました。清盛も、自分の後継者として平家一門を束ねる実力と人望を併せ持った人間は重盛しかいないと認めていました。それだけに、清盛にとって、重盛は自分の息子ながら頭が上がらない人間でした。その重盛が、場違いとも言える平時の服装でその場に現れ、出家している身でありながら鎧を着て殺気立っている清盛と対面したのです。清盛と重盛のこの時のやりとりは、戦前・戦中の歴史教育を受けた人にとっては、「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんと欲すれな忠ならず。重盛の進退ここに谷(きわ)まれり」という重盛の名言と共に“知っていて当然”の常識です。戦前の小学校の歴史教科書「尋常小学国史」には次のようにあります。
 『重盛は、はらはらと涙を流しながら、「恩を知つてこそ人といへるので、知らないものは、鳥やけだものと同じです。恩の中でも、一ばん重いのは君の御恩です。まして、わが家は桓武天皇の御末でありながら、中頃たいへん衰へてゐたところ、父上になつて大いに立身出世せられ、われわれのやうなおろかものまでも高い官位をいただいてゐるのは、これ全く君の御恩ではありませんか。今、この御恩を忘れて、天皇の御威光をかろんじ申すやうなことがあつては、たちまち神罰を受けて、一族はやがて滅びてしまふでせう。それでも、なほ父上がお聞入れなさらないなら、私は、兵をひきゐて法皇をお守りせねばなりません。しかしまた、父上にてむかふことも、子として私には堪へられません。それ故、父上がどうしてもこの企を成しとげようとなさるなら、まづ私の首をはねてからにして下さい」と、真心をこめて諌めたので、さすがの清盛も、しばらくは、思ひとどまるやうになつた。重盛のやうな人こそ、まことに忠孝の道を全うした、りつぱな人といふべきである』。
 主君に対する忠誠を貫こうとすれば親の言うことに逆らわなければならず、しかし親に孝行しようとすれば主君に対する忠誠心を捨てなければならない、そのような二律背反の葛藤の中で、重盛は涙を流して「自分を斬ってから出陣されよ」と清盛を強く諌め、おかげで法皇の逮捕・幽閉は阻止されました。
 今の歴史の授業では、こういうエピソードは教わらないのでしょう。「徳育」というと、過敏に反応する人たちがいますが、「なんでもOK」のアナーキズムでは社会を崩壊させていくでしょう。ますますアドラー心理学の「共同体感覚」の重要性が光ります。

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