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スレッドNo.22

論語でジャーナル’25

 「玄のまた玄、衆妙の門」は「道は万物の根源」だということです。万物の根源というと、ギリシャ哲学でも、哲学の祖と言われるタレスが「万物の根源は水である」と言っています。私は職業上でも馴染んだ言葉でした。それが、「根源的な力を想定するのは土着思想」だと教わったときはショックでした。1992年のアドラー心理学会横浜総会での野田先生の「基調講演」で、テーマは「心理学における土着思想と反土着思想」でした。もちろん、藤井先生と備前高校に勤めていたころは、アドラー心理学に出会っていなくて、老子の逆説的な人生観にすっかり惹かれて、読みふけりました。今も、覚えているいくつかのフレーズがあります。
・上善は水のごとし。水はよく万物を利して争わず。衆人の悪む(にくむ)ところに処る(おる)。ゆえに道に畿(ちか)し……。
 水はすべての生き物に恵みを与えて、自分は人々の嫌う低い水溜まりに溜まって、決して争わない。だから、こういう生き方が最上の善なのだ。このフレーズが自分にフィットしたのは、子どものころから母親に、「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」とか「倒されし竹は静かに起き上がり、倒せし雪は跡形もなし」と教えられていたからです。かくありたいと念じて生きてきたものの、私がこれをそのまま実行すると「偽善」になってしまいます。これが偽善だと自認できるようになったのは、アドラー心理学のおかげです。以前は自分では忠実に実行している気になっていました。自己欺瞞です。「自分の無意識は他人に意識」ですから、まわりの人にはバレバレだったのでしょう。アドラー心理学を学んだおかげで、カウンセリングなんかして、私たちが面接した人たちに多少ともお役に立っているとしても手柄顔をしないで、水のごとくありたいと思います。もちろん「上善」でもありません。
 老子の哲学は、中国の歴史の泥濘の中に腰を据えた哲学である。それは踏みつけられたものの強靱さ、大地に密着するものの粘り強さ、重心を下に落としたものの逞しさをおのれの生き方とする哲学で、それ以上に崩れようのないもの、一切の人間的な作為が崩れ落ち無に帰するところからおのれの生き方を考える、不敵な乱世の哲学である。……と福永光司先生の解説にありました。
・人の生まるるや柔弱、その死するや堅強なり。万物草木の生ずるや柔脆(じゅうぜい)、その死するや枯槁(ここう)す。ゆえに堅強なる者は死の徒、柔弱なる者は生の徒なり。ここをもって、兵強ければすなわち勝たず、木強ければすなわち折る。強大は下(しも)に処り、柔弱は上(かみ)に処る。
 “柔”であり“弱”であることが生命保持の根本原理であり、人生万事、“柔弱”の処世に徹した者が究極的な勝利を得ることを説明しています。
 そういえば、日本でも平安時代末期には、“剛”の武士は、“柔”の貴族の番人でした。鎌倉時代には“剛”の源氏が統治しますが、室町以後は本来“剛”の足利氏も、その後の秀吉も、権力を得ると貴族化していくのは、“柔”が“剛”に勝つという法則のためでしょうか。徳川家康は武家政権がゆらがないように、「武家御法度」などを定めて、200年以上の支配が続きました。その徳川政権が明治維新で、大政奉還して天皇に統治権が戻ります。昭和になって軍部が台頭してまたしても武民が実験を握り、敗戦で新憲法ができて、そして「シビリアン・コントロール(文民統制)」となり、歴史は繰り返されます。
 日常生活でも、鋳物の鍋は落とすと割れますが、柔らかい竹細工の籠は落としても弾力があって壊れません。人間も、打たれても打たれても、柔軟に跳ね返していく生き方に魅力を感じます。(まだまだつづく)

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