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スレッドNo.224

論語でジャーナル’26

20,子張問う。士、何如(いか)なればこれこれを達と謂(い)うべき。子曰く、何ぞや、爾(なんじ)の謂うところの達とは。子張対(こた)えて曰く、邦に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。子曰く、これ聞なり、達に非ざるなり。それ達なる者は、質直(しつちょく)にして義を好み、言を察して、色を観(み)、慮(はか)りて以て人に下る。邦に在りても必ず達し、家に在りても必ず達す。それ聞なる者は色に仁を取りて行いは違い、これに居りて疑わず。邦に在りても必ず聞こえ、家に在りても必ず聞こゆ。

 子張がおたずねした。「知識人はどのようであったら「達」と言えるでしょうか」。先生が反論された。「どういう意味かね?お前の言う達とは」。子張がかしこまって答えた。「国家に仕(つか)えるときっと評判になり、一族(豪族)の家に仕えてもきっと評判になるということです」。先生が言われた。「君が言っているのは「聞(ぶん)」で「達」ではない。達とは、真面目で正義を愛し、相手の言葉の意味を推察し、顔色によって心持ちを理解し、よく思慮して他人にへりくだる。それだから、国家に仕えてもきっと達し、豪族に仕えてもきっと達する。一方の「聞」というのは、表面だけは仁徳があるように見せかけているが、実行はまったく逆であり、このやり方に満足して疑問を持たない。そこで、国家に仕えても評判が良く、豪族に仕えても評判が良くなるのだ」。

※浩→質問者が子張に変わりました。「達」とは、実力によって社会的な地位を得ること。「聞」は、口先だけで社会的な地位を得て有名人であることです。「達」に至るには、素朴で正義を好むこと、人と接する場合には、相手の言葉をよく噛みしめて、相手の感情をよく観察する。また常に熟慮的で、人に謙虚であること。こういう人は“ホンモノ”です。熟語で整理すると、「素朴」「正義」「共感」「謙虚」となります。
 表面だけ派手に仁者を装って、実践は違って相手のことには無関心で鈍感で、自分のことにしか関心がなく、しかも傲慢で、まんまと社会的な地位を得て、その上にどっかりとあぐらをかいて、何の疑問も持たないような人は、有名人にはなるでしょうが、「こんな人には私はなりたくない」。宮沢賢治ならそう言うでしょう。

雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだを持ち
欲は無く
決して瞋(いか)からず
何時も静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆる事を自分を勘定に入れずに
良く見聞きし判り
そして忘れず
野原の松の林の影の
小さな萱葺きの小屋に居て
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
誉められもせず苦にもされず
そういう者に
私はなりたい

 私が好きな箇所は次のところです。「東に病気の子供あれば 行って看病してやり 西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い 南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い 日照りのときは涙を流し 寒さの夏はオロオロ歩き 皆にデクノボーと呼ばれ 誉められもせず苦にもされず」
 読むたびに心が洗われます。

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