論語でジャーナル’26
22,樊遅(はんち)、仁を問う。子曰く、人を愛す、知を問う。子曰く、人を知る。樊遅未(いま)だ達せず。子曰く、直きを挙げて諸(これ)を枉(まが)れるに錯(お)く。能(よ)く枉れる者をして直からしむ。樊遅退いて、子夏を見て曰く。嚮(さき)に吾(われ)夫子(ふうし)に見(まみ)えて知を問う。子は直きを挙げて諸を枉れるに錯く。能く枉れる者をして直からしむと。何の謂(いい)ぞや。子夏曰く、富めるかな言や。舜、天下を有(たも)ち、衆に選んで皐陶(こうよう)を挙ぐれば、不仁者遠ざかる。湯(とう)、天下を有ち、衆に選んで伊尹(いいん)を挙ぐれば、不仁者遠ざかりぬ。
樊遅が仁について質問した。先生は言われた。「人を愛することである」。知について質問した。先生は言われた。「人を知ることである」。樊遅は意味が十分わからない。先生がさらに言われた。「正直者を取り立てて不正直者の上に置けば、不正直者をまっすぐにすることができる」。樊遅は退席して子夏に聞いてみた。「先ほど先生にお会いして、知について質問しましたが、『正直者を取り立てて不正直者の上に置けば、不正直者をまっすぐにすることができる』と言われましたが、どういう意味なのでしょうか」。子夏が言った。「何と含蓄のある豊かな言葉だろうか。歴史をふり返ろう。舜が天下を統治していたとき、多くの人々の中から正直者の皐陶(こうよう)を司法長官に取り立てた。すると、不仁者つまり愛情の乏しい者が遠ざかった。また湯(とう)が天下を統治していたとき、人々から徳のある伊尹(いいん)を取り立てたた、不仁者は遠ざかった。先生の言葉どおりではないか」。
※浩→樊遅の第一の「仁」についての質問には、ただ「人を愛すること」とだけ答えて、それ以上言わない。第二の「知」についての質問には、「人を知ること」とだけ答えて、それ以上は言わない。あまりにあっさりした回答です。特に「仁」は、儒学の最も重要な徳でありながら、具体的に言われないのは、もしも「ああだ、こうだ」と決めてしまうと、それを聞いて人々はきっと教条的に形式的にそれのみを実行して、「仁をなした」と思い込むでしょうから、それを避けた孔子の配慮でしょうか。
そういえば、アドラー心理学の「共同体感覚」についても、アドラーは「生得的に備わった可能性であるが、育児教育でそれを育成していななければならない」とか、「他者の関心への関心」とくらいしか説明していないのでした。これも同じ配慮ではないかと思えます。アドラーのお弟子が、あるとき「どうすれば共同体感覚を教えられますか?」と質問したのに対して、アドラーは「Live it.」(それを生きて見せろ)と答えたそうです。あなた自身が共同体感覚を生きること、それこそが最良の教育法だということです。「他山の石」という『詩経』の有名なフレーズがありますが、これは本来は、「他の山からもたらされた粗悪な、磨いても玉にはならない石は、然るべき山から産する玉を磨くのに使え」という意味ですが、世間では誤って使われているようです。「他人の良い言行は自分の行いの手本となる」というふうに。「人のふり見てわがふり直せ」も、「他人の好ましくない行動を見て、自分の行動を正す」といういみですから、共同体感覚の育成とは逆のようです。『中庸』だったかに、「思いうちにあれば、色、外に現る」とありましたか。良いモデルでありたいものです。
子夏は樊遅の問いを受けて、「正直者が不正直者を改善させるという故事には、古代の聖王・舜と商の建国者・湯の事例がある」と教えてあげました。ここにも、社会の上に立つ人が有徳者であれば、人民はおのずと徳ある礼ある行動をするということが示されています。日本の現状との大きな落差を感じざるをえません。学校の教師にも当てはまるでしょう。昨今、乱れがあるようですが。