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スレッドNo.23

論語でジャーナル’25

 昔、苦境にあったとき、『老子』のおかげで助かりましたが、野田先生から、道家思想は土着思想だと教えられて、惜しみがらもきっぱり縁を切ってしまいました。その後、アドラー心理学の学びを深めていくにつれて、わかったことがあります。それも野田先生からの受け売りですが、理論の折衷はしないが技法の借用・折衷はかまわないと。アドラー心理学も、技法に関してはあちこちから借用しています。それは人類の共有財産だというふうに諸派でもとらえられています。そもそもアドラー心理学独自の技法といえば、「ライフスタイル(性格)分析」と「勇気づけ」くらいで、あとは、「主張性訓練」も「系統的脱感作」も「ロールプレイ」も他派からの借用です。理論を折衷するのは、ぜんざいととカレーを混ぜるようなもので、何が何だかわけがわからなくなります。
 そこで、たとえ土着思想であろうと、処世術つまり技法のほうは借用してもよいのではないかという結論に達しました。世の中は今ますます厳しい状況になってきました。「特殊詐欺」は激増、学校での「いじめ」、無差別殺人、マナーの悪さが蔓延する自己中心主義、天災による被害もあとを絶たないのに、人類共同体のほうはバラバラです。かつてリースマンが『孤独な群衆』に書いたとおり、人々は手のひらにすくい上げた砂粒のようで、一粒一粒バラバラです。家庭という社会の最低単位さえそうです。いわば、乱世です。野田先生は、「狂気の社会」だとおっしゃいます。そうなると、この逆説的に人生訓の詰まった『老子』こそ光ってくるようです。
 あらためて、読み直してみると、なるほど「前篇」の「道経」は理論のようで、「後篇」の「徳経」は技法のようです。よし!技法の借用はOKなんだ。さっそく63章と64章と最終の81章と取り上げます。

 63章──
 無為をなし、無事を事とし、無味を味わう。小を大とし、少を多とし、怨みに報ゆるに徳をもってす。難をその易にはかり、大をその細になす。天下の難事は、必ず易よりおこり、天下の大事は、必ず細よりおこる。ここをもって聖人は、ついに大をなさず、ゆえによくその大をなす。それ軽諾は必ず信少なく、易(やす)しとすること多ければ必ず難(かた)きこと多し。ここを持って聖人はなおこれを難しとす。ゆえについに難きことなし。

 無為をわがふるまいとし、無事をわが営みとし、無味をわが味わいとする。小には大を与え、少なきには多きを返し(浩→ここはわかりにくい。諸説あるそうです。)、怨みには恩恵で返す。困難な仕事は容易なうちに手をつけ、大きな仕事は小さなうちに片づけていく。世の中の難事は、いつでも容易なことから起こり、世の中の大事は、いつでも些細なことから起こる。だから無為の聖人は決して大事を隠そうとはせず、こうして大事を成し遂げる。そもそも安請け合いはかならずアテにならず、やさしく考えすぎると、きっとひどい目にあう。だから無為の聖人は、容易なことでも難しいこととして取り組み、こうして少しも困難が起こらない。
 文字数の多いところは訳しやすいですが、文字数の少ないのは訳しにくいです。こんなことを言うと、ここの老子の説と一致しそうですが、解釈は多様ですから、読み手に最もフィットするものを選ぶということで、福永光司先生のをいただきました。日常生活で、やらずもがなの余計なことをした。些細なことを見逃して油断した。報復的な行動をした。……私もこうした失敗には枚挙にいとまがありません。そのたびに、ここを思い出して、自分を戒めます。ほんとに些細なことですが、台所でコーヒーを入れて、量が多すぎてこぼれそうなのを、お盆に載せないで、片手で隣のリビングに運んでいて、ふらついてドバッと床にこぼして、泣きべそをかきながら、床を雑布がけしていたりします。そのとき、この老子を思い出して苦笑しています。(まだまだまだつづく)

編集・削除(編集済: 2025年07月27日 06:43)

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