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スレッドNo.233

論語でジャーナル’26

5,子曰く、詩三百を誦(しょう)するも、これに授くるに政を以てして達せず、四方に使いして専(ひと)り対(こた)うること能(あた)わざれば、多しと雖も亦(また)奚(なに)を以て為さん。

 先生が言われた。「詩経三百篇を暗唱していていっぱしの教養人のように見えても、実際の行政をさせてみるとうまくこなすことができず、外交官として四方の隣国に使者となっても、臨機応変に自己の判断で対応できないとするならば、豊富な教養(詩)を持っていても、何の役に立つか」。

※浩→「詩三百」とは、教養として記憶すべき三百篇の詩のことで、『詩経』はまさに三百五篇あります。孔子は、それらを単純に記憶して理解するだけの能力には意味がないと考えていて、実際の政治戦略・外交実務に生かさなければならないと弟子たちに教えていました。知識のための知識でなくて、目的遂行のための知識にこだわっているところに孔子の政治的なリアリズムが偲ばれます。「詩」の暗誦は“目的”でなく、“手段”です。 そう言えば、アドラー心理学では、学校は“手段”であって“目的”ではない、と考えます。「泰伯篇」に「子曰く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る」とありました。「詩」は出発点です。そして、「礼」を実践できてやっと一人前です。さらに音楽を行なえて完成だというのは、まるで野田先生みたいです。それにしても、詩三百とは驚きで、科挙の試験を受ける人は、これくらい暗記するのは、へっちゃらだったのでしょうから、恐るべき記憶力です。私も記憶力に自信がありましたが、詩を三百もとても記憶できそうにありません。でも、詩も音楽も好きですし、「礼」については、他人の無作法が気になるたびに、自分自身はどうか点検するようにはしています。

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